フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルのベートーヴェン交響曲第5番(1937録音)を聴いて思ふ

beethoven_5_furtwangler_bpo_19373151927年3月26日のベートーヴェン記念祭における講演でのロマン・ロランの言葉に心動く。

彼は運命と婚姻して自分の敗北から一つの勝利を作り上げた。「第5交響曲」や「第9交響曲」の、あの心を酔わせる終曲こそは、打ち倒された自分自身の身体の上に、勝ち誇って光明に向かって立ち上がる、解放された魂以外の何者であるか?

ロマン・ロラン著/片山敏彦訳「ベートーヴェンの生涯」(岩波文庫)P158

スケッチ帳に最初に楽想が登場するのが1803年頃。ハイリゲンシュタットの遺書を乗り越え、難聴が悪化の一途を辿って行く中で、一旦このドラマは横に置かれた。そして、いかにも柔和かつ優美な音楽、すなわちヴァイオリン協奏曲やピアノ協奏曲第4番、あるいは交響曲第4番という名作が書かれた後に「自然讃歌」の交響曲とともに世界に姿を現した、自己(否、人類)を鼓舞する解放のドラマ、ハ短調交響曲。

冒頭の主題だけがあまりに有名になったこの作品は、ベートーヴェンの最高傑作のひとつであり、何年もの推敲の後に書かれただけある一部の隙もない、緊張と弛緩の音絵巻。
完成は1808年。この5年の間にベートーヴェンは悟りを開いたのであろう。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、1942年の「ベートーヴェンと私たち―「運命」第1楽章のための注意―」と題する小論で次のように書く。

ベートーヴェンの音楽は統合的である、と同時にまた豊かな交替に織りなされています。男性的なものと女性的なもの、峻厳なものと優雅なもの、最も隠微をきわめた細部と広大な視野を一望の下に収める稜線と―いっさいはここにその神秘を孕んだ配慮の下に統合されて一体となっています。このようにしてベートーヴェンはまず何よりも偉大な「立法者」でした。なぜなら彼の場合作曲法について言えば、バッハのような対位法的要素の優先的支配もなく、モーツァルトやシューベルトの場合のような旋律的要素、ワグナーの場合のような官能的=諧音的なるもの、情熱的、反語的な要素の優先的支配もありません。むしろこれらのすべてが一つの「合金術」の中で融合され、その合金はまたそれによって驚くべき高度において打ち出された自然さをふしぎにも備えているように思われます。
フルトヴェングラー著/芳賀檀訳「音と言葉」(新潮文庫)P72-73

フルトヴェングラーの言う「統合的でありながら、豊かな交替に織りなされる」という奇蹟こそがベートーヴェンの真髄であり、まさにそのことは彼が幾種も残した第5交響曲のどの録音にもそのエネルギーの奔流が刻印されており、どの瞬間も実に神々しい。

ベートーヴェン:
・交響曲第5番ハ短調作品67
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1937.10.8&11.3録音)
・ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第1番ト長調作品40
・ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第2番ヘ長調作品50
ユーディ・メニューイン(ヴァイオリン)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮フィルハーモニア管弦楽団(1953.4.9録音)
・「レオノーレ」序曲第3番ハ長調作品72a
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団(1948.11.13Live)

フルトヴェングラーの造形はいつの時代も基本的に変わらない。生きとし生けるもの、森羅万象のパルス(律動)と同期し、興奮と鎮静を見事に行き来する。
終楽章の提示部から展開部に移行するところでSP盤の盤面が替わる継ぎ接ぎが少々興醒めではあるものの、一方で壮年期ならではの熱いパッションが感じられる傑作の名演奏。
真に第5交響曲は、ワーグナーの幾つもの長大な楽劇に匹敵するまさに音楽ドラマであり、変容と覚醒、そして昇華の過程を巧妙に捉えた傑作なのである。

ところで、フルトヴェングラーのライブがいかに凄まじいものであったのかを再認識させてくれるのがストックホルム・フィルとの「レオノーレ」第3番。客演オーケストラでこれほどまでの気迫とエネルギーを注ぎ込むパワーは並大抵でない。(劣悪な音質からでも感じとることができるのだから)

 

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