彼は幼稚にも、インドに行きさえすれば変貌を遂げられると考え、「私自身がインドに行く必要がある」と決心し、可能な限りあらゆる人に、超自然、幻覚、予見能力等々について訊ねた。
~レオニード・サバネーエフ著/森松晧子訳「スクリャービン―晩年に明かされた創作秘話」(音楽之友社)P99
神秘主義への憧れ、インドへの憧れ、そして中世への憧憬。
いかにも超越的能力を秘めた人だったように思われるが、実際には超能力はなく、神秘的な体験をすることに生涯憧れを持っていた。幻覚や幻聴についても本人はずっと体験したいと思っていたらしい。麻薬にその効果があると聞き、興味は持ったものの、実際に手を染めることはなかったという。
彼は時にはハシシに似た麻薬にさえ熱烈に憧れていた。誰かが麻薬の効用を伝えたのを、彼は陶然として「時には今の世の中とのそんな断絶も有益だ」と言う。しかし一度も麻薬経験をしでかしはしなかった。
~同上書P99
ベートーヴェンの音楽を四角四面だと嫌ったアレクサンドル・スクリャービンは、その音楽が表すように、実に真面目な性格の持ち主だった。
昔熱愛したショパンは、過去から自分へと繋ぐ鎖の環として評価し「彼は大きな意味を持つ。当時の古典的和声において高度に高尚な表現だった」と言った。ベートーヴェンも好まず、民衆的な通俗性と四角四面が彼を苛だたせた。ある時クーセヴィツキーの演奏会で《第7交響曲》を聴いたが、「これは何だ?病人になりそうだ、トニック、ドミナントだらけだ」。
~同上書P85
スクリャービンの作品は「法悦」などというタイトルが付いていても決して官能的だといえないのは、思考の産物だからだろうか。ワーグナーのように私生活でも相当乱れた生活をしていたらひょっとしたらその音楽ももっと人々の心を捉え得たのかもしれない。
また、ハンス・フォン・ビューローの「初めにリズムありき」という言葉に感応し、彼はこう言ったという。
立派な言葉だ。リズムは最初にあるべきもので、本当にそうです。つまり、リズムによって全てが生まれ、リズムを通して世界が誕生しました。本当に全てがリズムです。生活においても自然においても、全てが律動的であり、宇宙の時間的変転をも含めて律動的だ。
~同上書P94
スクリャービンの言葉に膝を打つ。
そして、そのスクリャービンの想いと一体化し、彼の音楽を見事に体現するアナトール・ウゴルスキ。ワーグナー的官能とは異なるスクリャービン独自の神秘世界。しかし、通底する信仰は極めてワーグナーのそれに近かった。
既成宗教は退化ですね、真の魔術があった時の信仰の、衰退した末裔です。だから私は神秘劇で魔術を復活させねばならないし、させたい。古代の宗教秘儀には真の奥義がありました。だが現在の聖職者どもは、魔術を忘れた未熟な祭司階級です。
~同上書P101
スクリャービン:ピアノ・ソナタ全集
・ピアノ・ソナタ第1番ヘ短調作品6
・ピアノ・ソナタ第4番嬰ヘ長調作品30
・ピアノ・ソナタ第6番作品62
・ピアノ・ソナタ第9番作品68「黒ミサ」
・ピアノ・ソナタ第10番作品70
アナトール・ウゴルスキ(ピアノ)(2007-2009録音)
「トリスタンとイゾルデ」の世界をなぞるソナタ第10番。この単一楽章の作品の内燃するエネルギーと、表面上のいかにも冷たい印象を与える音調が、スクリャービンの行き着いた世界なのだろう。
それは同時に、この人もやはりワーグナーの世界を超えることができなかったことを示す。
それにしても、ウゴルスキのテクニックはもとより、トリルを多用するこの怪しげな世界を巧みに音化する表現力に脱帽。
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