第1796回N響定期シャルル・デュトワのドビュッシー「ペレアスとメリザンド」

debussy_pelleas_20141205044演奏会形式のオペラ上演は固定化された演出がない分、聴く者の想像力を掻き立てる魅力に溢れる。第2幕第2場の、ゴローとメリザンドのやり取りの中でのメリザンドの言葉にはっとした。

どうしてか分かりません・・・あたしも病気なのです・・・思い切って、きょうは申し上げますが、わたくし、ここに来てから仕合わせとは申せません・・・
メーテルランク作/杉本秀太郎訳「対訳ペレアスとメリザンド」(岩波文庫)P55-57

メリザンドのこの告白につけられた音楽の、力強いながらそこはかとなく漂う妙なる香りに魅せられた。第1幕冒頭のメリザンドの「さわらないで、さわってはいやです、さわったら、水にとびこんでしまいますから・・・」という件から、この女性が魔性を秘めた、とらえどころのない人であることがわかる。か弱く無色透明である分、内側にどこか棘のようなものを感じる女なのだ。ドビュッシーの音楽はまたそのことを如実に表し示す。

ドビュッシーは、ある時、もはやワーグナーの音楽の後継は存在せず、彼を超える何かを生み出すことこそが創造であると悟ったが、さすがに幾度もバイロイトに通い、一時期ワグネリアンを通したこともあり、どんなに自分自身のイディオムによる作品を書き上げたとしても根本的にワーグナーの毒から逃れることはできなかった。この音楽は独自で孤高のものとはいえ、やっぱりワーグナーの影響下にある。

NHK交響楽団第1796回定期演奏会
2014年12月5日(金)18:00開演
NHKホール
・ドビュッシー:歌劇「ペレアスとメリザンド」(全5幕・演奏会形式)
ステファーヌ・デグー(バリトン、ペレアス)
ヴァンサン・ル・テクシエ(バス・バリトン、ゴロー)
フランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒ(バス、アルケル)
カトゥーナ・ガゼリア(ソプラノ、イニョルド)
デーヴィッド・ウィルソン・ジョンソン(バリトン、医師)
カレン・ヴルチ(ソプラノ、メリザンド)
ナタリー・シュトゥッツマン(コントラルト、ジュヌヴィエーヴ)
浅井隆仁(バリトン、羊飼い)
東京音楽大学(合唱)
篠崎史紀(コンサートマスター)
シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団

ドビュッシーの音楽は実演に触れない限り真髄はわからないだろう。細部のニュアンスを録音で聴きとる、感じとることはとても難しいことだとあらためて思った。
前半(第1幕~第3幕)のクライマックスは、先の第2幕、ゴローとメリザンドの対話から第3幕のメリザンドの独唱を経て、ペレアスとメリザンドの愛のやり取りに至る流れ。何という官能の音楽!ワーグナーの官能が動的なものであるならば、ドビュッシーのそれは極めて静的でためらいがちなそれだ。であるがゆえの色気が一層湧き立つような舞台だった。

メリザンド 「放してちょうだい、おねがい・・・ひとが来るかもしれないわ・・・」
ペレアス 「いや放さない、今晩じゅうは、君を放してあげない・・・君は、ね、今夜は、ぼくのとらわれの女だ、一晩じゅう、ずっと一晩・・・」
~同上書P99

30分の休憩を挟み、後半は第4幕及び第5幕。
第4幕第4場の、やはりペレアスとメリザンドの清楚で可憐な、しかし悶えるような苦悩の恋愛シーンに、実際にはそれが舞台で演じられることがなくとも、デュトワ&N響によって見事に音化されたことで僕の心は大いに動いた。
その後、城門が閉まって中に戻れなくなった二人が交わす言葉の深さに感涙。

メリザンド 「よかった。こうなったほうがよかった」
ペレアス 「そうかな・・・ほんとだ、ほんとだ・・・もう、ぼくたちも、戻る気などしなくなったね・・・何もかも、おしまい、何もかも、これでよし、今夜こそ先が開けるのだ」
~同上書P165-167

終わりがあって始まりがある。そこにあるのは勇気と解脱。そして何よりドビュッシーの洒脱な音楽。
そしてまさに最後、第5幕第2場の老王アルケルの言葉に思わず膝を打つ。魂は決して救われないのだと。同じことを幾千年も繰り返すのだと。何という悲哀。

人の魂というものは、とても無口なものなのだ・・・人の魂というものは、独りで、そっと、立ち去るものだ・・・あれの魂は、あんなにおずおずと、人目に立たぬように苦しんでいる・・・だが、悲しいことだ。
~同上書P203

今度は、この子供が、生きてゆかねばならない、それなりに・・・今度は、このかわいそうな小さなものの生きてゆく番なのだよ・・・
~同上書P205

あまりに儚く、あまりに美しかった。
ドビュッシー自身の、初演時の批評についての反論をひもといた。ドビュッシーの音楽は生きている。

私の音楽は、技法上やむをえない事情があって、登場人物たちの感情、情熱の動きを、ことさら早めたりおくらせたりしている、などという非難には、私はとても同意できませんでした。登場人物たちの仕草、叫び、悦び、苦悩に、音楽のほうから関与せぬがよいと納得したらすぐに、私の音楽は身を引くのです。
(「フィガロ」紙1902年5月16日)
杉本秀太郎訳ドビュッシー評論集「音楽のために」(白水社)P271

シャルル・デュトワの、緻密で繊細な音楽作りにあらためて感激した。この人が音楽監督をやっていた頃のNHK交響楽団が僕は好きだった。観客はよくわかっている模様。終演後の圧倒的拍手喝采がそのことを物語っていたように思う。

 

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3 COMMENTS

畑山千恵子

青柳いづみこさんも、ドビュッシーがヴァーグナーから抜け出せなかったことを指摘しています。ヴァーグナーを真似るより、その先を考えるべき、といっても、結局ヴァーグナーべったりだったことは、ドビュッシーの限界だったかも知れません。
ドビュッシー自ら台本を書いたものの、未完となった「アッシャー家の崩壊」は、ヴァーグナーから抜け出せなかったドビュッシー自身だったかもしれません。

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岡本 浩和

>畑山千恵子様
そうでしたか!
当時のヨーロッパの芸術家はどんな人も結局ワーグナーの呪縛からは逃れられなかったのでしょうね。
ありがとうございます。

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アンリ ルガズ カシュマイユ デュトワ指揮モントリオール響 ドビュッシー 歌劇「ペレアスとメリザンド」(1990.5録音) | アレグロ・コン・ブリオ

[…] 歌劇「ペレアスとメリザンド」。いつぞや(ちょうど9年前!)シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団による演奏会形式での実演に触れたときの感激たるや。音の響きそのものは実演に触れ […]

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