ベーム指揮ハンブルク国立歌劇場管のR.シュトラウス楽劇「サロメ」(1970.11Live)を聴いて思ふ

strauss_salome_bohm_1970NHKスペシャル「新・映像の世紀」第2章『グレートファミリー・新たな支配者』を観た。
そこでは資本主義社会を牛耳る財閥の生き様が描かれていた。
ロックフェラーの野望と先見に目を瞠り、同時に今の世の中を形成するシステムの功罪を思った。

また、レオニード・サバネーエフの「スクリャービン―晩年に明かされた創作秘話」をようやく読み終えた。これは、作曲家を間近で見た友人が著した、天才アレクサンドル・スクリャービンにまつわる見事なドキュメントだ。
スクリャービンの言葉は実に重い。
現在でいうスピリチュアリストであったこの音楽家の生き様は、資本主義の悪魔と呼ばれたロックフェラーの方法とはまさに対極にあるものだろう。

だが大きな試練と恐ろしい瞬間があるでしょう。私は個人的に覚悟ができています。そのわけは、我々が完全な物質化を通り抜けねばならないからです。つまり全ての知的な興味は消え、小さな釜の中以外には、あらゆる神秘主義が消え去る時代が訪れるでしょう。最も恐ろしい散文的時代、完全な物質的計画への埋没、全ての精神性の完全な喪失の時代が訪れる。これは機械、電気が全てを支配する商業主義的な時代で、社会主義の勝利と一致する。私はプレハーノフにこれを1905年に話し、彼は完全に同意しました。
レオニード・サバネーエフ著/森松皓子訳「スクリャービン―晩年に明かされた創作秘話」(音楽之友社)P244

果たしてスクリャービン自身は彼のいう恐ろしい試練の前に天に召されてしまったのだが、それこそ20世紀という時代を見透かしていたかのような言葉である。しかし、だからと言って物質性を一切否定し、精神性だけを肯定するというのは極めてナンセンス。

ドイツは究極の物質主義、現代世界での物質主義の見取り図です。見てください。ドイツでは全ての科学と技術が略奪思想に奉仕している。まさにそうです。どんな音楽家も注意深ければ予言者になれます。なぜなら音楽には全てが鮮明に反映されるからです。例えばリヒャルト・シュトラウス一人から、ドイツが企む世界戦争の勃発、この戦争でのドイツ人による甚だしい残虐行為も、既に久しく予測できたかもしれません。だがロシアと同盟諸国は精神性を残している国々です。今やまさに精神性と物質主義との闘いです。神秘主義界の最終段階でもこの問題は提起され、そこでも同様に精神と物質間の闘いが進みます。この戦争は、その反映に過ぎません。
~同上書P245

その上、ドイツを物質主義の象徴としてやり玉に挙げるが、これも偏った見方に過ぎない。そもそも善悪二元論で物事をとらえること自体真の意味での精神性を逸脱するもの。スクリャービンの思想は究極的には的を射たものが多いだけに特に最晩年のこういう固執には残念な思いがこみ上げる。おそらく、東洋思想的な、それこそ陰陽二元を超えたセンスを彼が持ち合わせていたなら彼の生命活動(あるいは音楽活動)は何らかの変化があったのかも。
もはや闘うべきではないのである。

ちなみに、スクリャービンのその予言は、ロシア第一革命のあった1905年にはじまるもの。
ちょうど同じ時期、ドイツではリヒャルト・シュトラウスが楽劇「サロメ」を世に問おうとしていた。

「サロメ」は(スクリャービンのいう)物質主義の象徴といえるのか?
そして、スクリャービンは「サロメ」をもそのように断じていたのだろうか?
確かにこれは世紀末の危険な匂いのするオペラだ。
サロメの異常性愛が略奪思想から来るものだとするなら、スクリャービンの言うとおりだろう。
とはいえ、これほど精神性の高い音楽はないのではないか・・・。
むしろ、僕はこの少女の悲しい狂気の裏に儚い愛をいつも思うのである。

20世紀初頭のドイツにあって生み出された奇蹟の舞台。
官能的な音楽とそこにある陶酔は(かつての)スクリャービンの中にもあったもの。
まさに同時代に同じ空気を分かちあった二人の天才は、互いに理解はしあえなかったのだろうが(もちろん面識もなかった)、精神の奥底で深くつながっていたのではなかったか。

R.シュトラウス:楽劇「サロメ」作品54
ギネス・ジョーンズ(サロメ、ソプラノ)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(ヨカナーン、バリトン)
リチャード・キャシリー(ヘロデ、テノール)
ミニョン・ダン(ヘロディアス、メゾソプラノ)
ヴィエスワフ・オフマン(ナラボート、テノール)ほか
カール・ベーム指揮ハンブルク国立歌劇場管弦楽団(1970.11Live)

カール・ベームの「サロメ」は実に険しく厳しく、素晴らしい。
例えば、第3場サロメとヨカナーンの対話における心理描写の素晴らしさ。音が生き、各々の葛藤が鮮やかに表現される。
そして、第4場最後のシーンの、不気味さが幾分減じて表出される音楽はベームの真骨頂。
また、ギネス・ジョーンズによるサロメの長いモノローグに心動き、ヨカナーンの生首に接吻後のリチャード・キャシリー演じるヘロデの声にすら(憎悪の裏に隠された)僕は大いなる愛を覚えるのである。

なるほど、音楽というもの、すべては聴き手ひとりひとりの解釈(すなわち思い込み)によるものだ。
そこにはすべてがある。スクリャービンの言うように。

 

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