愛の悦び

週末に実施するセミナーについていろいろと模索、思案した。丸一日かけてやる実習のテーマは「愛」。それも「恋愛」ではなく普遍的「愛」について。以前トランスパーソナル心理学の「無境界」という書物について書いた。僕は20年近く「人間力向上」や「自己分析」のセミナーに携わってきて最終的に行き着いたところが、「人間は身体を持っているがゆえに自己と他者を分け隔て考えているが、実は自然を含め一つである、ひとつになりたがっている」という真理。
今日は、「愛」について思考を巡らしながら幾つかの書籍を読み、バグワン・シュリ・ラジニーシに辿り着いた。

その中の一節。

エゴが強ければ強いほど、その人が誰かと一体になることは難しくなる。間にエゴが入り込んでくる。「私」が自己を主張する。それは壁だ。それは、「あなたはあなたで私は私だ」と宣言する。そのため、最も親密な体験でさえ人を互いに近づけることはない。身体は近くにあるだろう。だが人は遠く離れている。この「私」が内側にある限り、この「他者」という感覚は避けられない。
私は私だから他人は他人だ。そして私が「私」である間は、まわりを取り巻く世界は他者だ。異なり、分かたれ、分離されている・・・。ひとつになることはない。
この分かたれているという感じがある限り、愛を知ることはできない。愛はひとつになるという体験だ。壁が取り壊されること、ふたつのエネルギーの融合、それが愛の体験だ。愛はふたりの人間の間の壁が消え去るときの、ふたつの生命が出逢うときの、二つの生命がひとつになるときの、最高の瞬間なのだ。

究極である。

J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(全曲)
ヘンリク・シェリング(ヴァイオリン)

作曲家が「愛」を表現しようとする音楽は古今東西様々ある。中世・ルネサンス時代の教会音楽から19世紀ロマン派のショパンやリスト、ワーグナーの音楽など・・・。
しかし、数多ある名曲群の中で群を抜き聳え立つエベレスト的究極の「愛」を表現する音楽がバッハにはある。ある人は「マタイ受難曲」というかもしれない。いや、ゴルトベルク変奏曲だという人もいるだろう。人によって感じ方は違うかもしれないが、究極の「愛」、即ち「神」に到達する音楽の最右翼はこの「無伴奏ヴァイオリン曲集」かもしれない。
シェリングの演奏するバッハは厳格だ。そしてその厳しさの中に間違いなく「愛」が存在する。

⇒旧ブログへ


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む