ベートーヴェンの革新性

beethoven_15_16_smetana_q.jpgベートーヴェンの革新性。昨晩のコンサートの最後に聴衆から質問が出た。作品111の第2楽章に結構な方々が打ちのめされたようで、しかもほとんどの人はこの音楽を初めて聴いたにも関わらず、ちょうど第2変奏あたりをジャズのようだと評されていたのには少々驚いた。もちろん聴けばまるでスウィング・ジャズそのものなのだが、その夜の聴衆の耳の確かさはもちろん、演奏者とオーディエンスが一体になってその場を作っている、そういうエネルギーが本当に充溢しており、極めて満足感のある2時間余りだった。

ピアニストはまだまだ週末に向けて気は抜けないが、一介のお話役の僕としては、ベートーヴェンの偉大さにあらためて気づかされ、本日もシューマンのいくつかの音楽(チェロ協奏曲や「ファウストの情景」や)を聴く一方で、後期ベートーヴェンの音楽をじっくりと傾聴したくなり、スメタナ・カルテットの奏する弦楽四重奏曲を取り出した。

完全に外界の音を遮断された楽聖が、凡人には信じられないような「虚無」、完全に透明な世界を現出する。第15番のアダージョ楽章の「感謝」の念。先の作品111の第2楽章にも近い、「全てが一に帰する」、そういう感覚を思い起こさせずにおかない美しくも高貴な音楽。そして何より、第16番、最後の四重奏曲(「田園」交響曲と同じ調性!)の切り詰められ、研ぎ澄まされた途方もない永遠の調べ。これらを実演で触れる時の喜びは何ものにも代えがたい。

ベートーヴェン:
・弦楽四重奏曲第15番イ短調作品132(1967.1.23-28)
・弦楽四重奏曲第16番ヘ長調作品135(1968.10.25&11.9)
スメタナ四重奏団

60年代のスメタナQの演奏は別格。「昔は良かった」的な発言はあまりしたくないのだが、心がこもって温かみがあり、しかも直截に肝に響く音楽作りは、何事にもアナログだった時代ゆえの産物なのだろう。現代のような誰もが簡単に何でもコピーできる「似非」の時代とはやっぱりどこか違う。

勤労感謝の日、すなわち「勤労を尊び、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」日。人のために尽くすこと。それは「仕事」に限ったことではない。誰かに喜んでいただく、そういう姿勢で何事にも臨めば、物事はうまくゆくはず。

さて、また日常に戻って・・・、がんばろう。


2 Comments

雅之

おはようございます。
前にも言いましたが、作品111の第2楽章、第2変奏あたりは、私も遠い大学生時代、はじめて聴いた時から「これはジャズだ!」と思いましたよ。この作品に限らずベートーヴェンの後期作品は、楷書的でガツンとしたアジテーションみたいな物言いが減り、流れる雲のような草書的な表現方法の主眼が移っていきましたよね。ここが、ジャズに一脈相通ずるんだと認識しています。まあ、それをしっかりと聴衆に実感させた愛知とし子さんの演奏が、それだけ秀逸で、作品の核心を衝いていたということでしょう。
>60年代のスメタナQの演奏は別格。「昔は良かった」的な発言はあまりしたくないのだが、
>現代のような誰もが簡単に何でもコピーできる「似非」の時代とはやっぱりどこか違う。
いいですよねえ、このころのスメタナQは。ご紹介の音盤の録音時期1967年1月~1968年11月って、日本では、初代トヨタ・カローラが発売されたほぼ同時期(1966年11月 – 1970年5月。私は自動車業界とは直接仕事上の関係は少ないのですが・・・)。高度成長まっただ中。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9
一方、そのころの東側共産主義国家内では、当時の日本人の想像をも絶した部分が多々あったのだと思います。
私の生まれるきっちり1ヶ月前(1961年12月6日)にプラハで録音されたアンチェル&チェコ・フィルの「新世界交響曲」
http://www.hmv.co.jp/product/detail/749569
が、何で他の演奏を寄せ付けないくらい、あんなに素晴らしいんだろうと、最近よく思います。ユダヤ人だった指揮者アンチェルは、自身も強制収容所に入れられましたが、愛する両親と妻子をアウシュビッツで虐殺された不幸を経験しているんですよね。さらにこの録音の7年後ソヴィエト軍のプラハ侵攻後、アメリカ演奏旅行中に亡命してカナダに移住して、二度と祖国の地を踏むことはなかったんですよね。
チェコの弦の奏法(現代のピリオド奏法では、こういった流派の歴史はまったく無視)に加え、戦争や抑圧された社会体制下での生きるか死ぬかの極限を経験したあの時代の演奏家の生きざま・・・、それが間接的にでも音楽表現に反映しないはずはないです。そりゃあ、「愛」だの「感謝」だの「勤労感謝」だの言ったって、戦後世代以降は言葉も演奏表現も、上っ面だけの能天気な傾向になるのは「当り前だのクラッカー」ですわなあ、まったく・・・(笑)。 

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
>それをしっかりと聴衆に実感させた愛知とし子さんの演奏が、それだけ秀逸で、作品の核心を衝いていたということでしょう。
そういうことなんですかね。あの部分はやっぱり難しいらしいのですが、先日の演奏は会心の出来だったと本人も申しておりました。
>のころの東側共産主義国家内では、当時の日本人の想像をも絶した部分が多々あった
そうでしょうね。僕はまだ3~4歳の洟垂れ小僧でしたが、父が自動車関係に勤務していましたから車というものが大衆化していく変遷は子どもながらに実感してました。当時の東側の世界については当然想像する余地もないですが(苦笑)。
ご紹介のアンチェルの「新世界」、残念ながら未聴です。しかし、雅之さんのコメントを見て、俄然聴きたくなりました。
>戦争や抑圧された社会体制下での生きるか死ぬかの極限を経験したあの時代の演奏家の生きざま・・・、それが間接的にでも音楽表現に反映しないはずはない
同感です。隣の朝鮮半島では何やらまた不穏な空気が漂ってまいりました・・・。どうなるのでしょう・・・。

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