クナッパーツブッシュ指揮バイロイト祝祭管のワーグナー「パルジファル」(1957Live)を聴いて思ふ

エルンスト・ブロッホの「ワーグナーの《パルジファル》における逆説」という小論が興味深い。

ワーグナーの音楽には炎を伴わない涅槃はない。そのため「トリスタン」和音の憧憬は、むろんまったく反対の価値を伴ってではあるが、もう一度「パルジファル」において劇中人物となる。しかし、「パルジファル」は無限の中へと足を踏み入れることを許さないため、フォルムにおいても尽きてしまい、そこで終ってしまう。その限りでは「パルジファル」は意外なことに、「トリスタン」あるいは「指環」よりはるかに世俗的な楽劇であり、結末に野外での印象的な祝祭の場面を伴った「パルジファル」は、ワーグナーの偉大な作品の中で、「マイスタージンガー」と並ぶもっとも世俗的な作品なのである。
アッティラ・チャンバイ/ディートマル・ホラント編「名作オペラブックス20パルジファル」(音楽之友社)P294

誰であろう、(悟りを得ない)生身の人間が「聖なるもの」を描こうとすればするほど実際それは「俗なるもの」に限りなく近くなる(堕ちて行く)ということだろう。
ワーグナーは、バイエルン国王ルートヴィヒⅡ世に宛てた手紙(1880年9月28日付)で次のような言葉を残している。

じっさい、キリスト教の信仰の崇高なる神秘劇がありありと描き出されている物語を、いったいどうしてわが国におけるような劇場で、オペラのレパートリーとならべて、わが国におけるような聴衆を前にして上演することができましょうか。そんなことが許されてよいものでしょうか。私はかりに教区委員が、これまで軽佻浮薄な作品がまかり通り、これからも事情は変わりそうもないその同じ舞台の上で、軽佻浮薄な作品にしか魅力を感じないような聴衆を前にして、神聖この上ない神秘劇を上演することに異議を唱えるようなことがあっても、別に気を悪くしたりはしません。この辺の事情を正確に感じ取っていたから、私は「パルジファル」を〈舞台神聖劇〉と命名したのです。
~同上書P182-183

発する側の思惑と受ける側の思念の相違、ぶつかり。この際、思想はどうでも良い。聖俗併せ呑むクナッパーツブッシュの「パルジファル」を前にして。

マルタ・メードルのプライヴェート・コレクションからのCD化という1957年バイロイト音楽祭の「パルジファル」。音の状態からエアチェックがもとになっているようで、音飛びや揺れ、混線ノイズが時折聞こえるが、ハンス・クナッパーツブッシュの演奏そのものは、それ以前の音楽祭のものに比較し、圧倒的で壮大、ものすごい振幅を伴ったエネルギーに溢れ、しかも息切れ寸前のような深い呼吸で音楽が奏でられ、聴いていて思わず無呼吸状態に陥るほど。おそらくその場に居合わせた聴衆は、言葉に表せぬ感動に満たされたことだろう。

具に聴き比べたわけでなし、ましてやそんなことをする時間的精神的余裕もないのであくまでこの音源の聴後の感想に過ぎないが、この頃のクナッパーツブッシュは心身共に最も充実していた時期なのだと思う。

また、すばらしいパルジファル歌手が演じるならば、この場面は非常に完成度の高いものとなりました。今でも思い出すのですが、1955年7月バイロイト祝祭劇場で、クナッパーツブッシュによる練習の最中、当時のパルジファル歌手であったラモン・ヴィナイはこのパートを指揮者の意図に沿って輝かしく歌い切り、次にクンドリーが歌い出す前に、演出家の指示通り、客席に向かってゆっくりとひざまづきました。「罪ふかいわたしは、どうしたら、この罪がつぐなえましょう」という言葉の後、クナッパーツブッシュはオーケストラを指揮しながら、そのざらついた声で舞台に呼び掛けたのです。「ブラヴォー、ヴィナイ君!おみごと!」ヴィナイはその瞳に感謝の情を湛えクナッパーツブッシュに微かにうなずきました。それはまさにこの歌手の人生においてすばらしい瞬間であったことでしょう。
フランツ・ブラウン著/野口剛夫編訳「クナッパーツブッシュの想い出」(芸術現代社)P63-64

1957年、バイロイトでのこのシーンも同じく熱がこもる。
ヴィナイの強烈な歌唱は、管弦楽の壮絶なうねりとともに、パルジファルの覚醒を見事に表現し切る。続くマルタ・メードル扮するクンドリーの歌唱がまた慈悲深く素晴らしい。

(驚愕からひたむきな讃嘆へと表情が変わり、恐るおそるパルジファルに寄り添おうとする)
待ちかねていたのよ。世迷い言は沢山。
こちらを見て! 慈しみの女に、すげなくしないで!
日本ワーグナー協会監修/三宅幸夫・池上純一編訳「パルジファル」(白水社)P73

筆舌に尽くし難いパッション!

・ワーグナー:舞台神聖祭典劇「パルジファル」
ジョージ・ロンドン(アムフォルタス、バリトン)
アルノルト・ファン・ミル(ティトレル、バス)
ヨーゼフ・グラインドル(グルネマンツ、バス)
ラモン・ヴィナイ(パルジファル、テノール)
トニ・ブランケンハイム(クリングゾル、バス)
マルタ・メードル(クンドリー、ソプラノ)
ヴァルター・ガイスラー(第1の聖杯騎士、テノール)
オットー・ヴィーナー(第2の聖杯騎士、バス)
パウル・レンヒナー(第1の小姓、ソプラノ)
エリーザベト・シュルテル(第2の小姓、ソプラノ)
ハンス・クロットハマー(第3の小姓、テノール)
ゲルハルト・シュトルツェ(第4の小姓、テノール)、ほか
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮バイロイト祝祭管弦楽団&合唱団(1957Live)

恍惚の第3幕!
滔々と流れる大河の如くの雄渾さは、「聖金曜日の奇蹟」の場面をもって頂点を築く。

グルネマンツ
(手で泉から水を掬い、パルジファルの頭に注ぎかけ)
けがれなきお方よ、けがれなき水の祝福を受けたまえ!
かくして罪障ことごとく
御身より消滅すべし!
(グルネマンツがおごそかに水を注ぎかけるあいだ、クンドリーは胸元から金色の小瓶を取り出す。中身をパルジファルの足に注ぎ、ふりほどいた髪で拭う)

パルジファル
(クンドリーそっと小瓶を受け取り、グルネマンツに手渡す)
お前は香油を足に塗ってくれた。
ティトゥレルの同志には頭に塗ってもらおう
今日にも王として迎えてもらうために

グルネマンツ
(小瓶の中身をすべてパルジファルの頭に振りかけ、そっと撫でつけてから頭上で合掌する)
まこと、われらに約束されしごとく
あなたの頭を祝福し
王としてお迎えしたい。
あなたこそ、けがれなき人。
日本ワーグナー協会監修/三宅幸夫・池上純一編訳「パルジファル」(白水社)P95

もはや神がかり的。先の手紙でワーグナーは言う。

「パルジファル」は、よその劇場で、聴衆のたんなる楽しみのために上演されるようなことがあってはなりません。これが思いどおりにいってほしい、というのが私が心に抱いている唯一の願いですし、この願いのために私は、どんな対策を講じれば私の作品がこの使命を確実に果たすことができるのだろうか、という問題に頭を悩ませるようにもなったのです。
アッティラ・チャンバイ/ディートマル・ホラント編「名作オペラブックス20パルジファル」(音楽之友社)P183

残念ながらワーグナー唯一のこの願いはコジマの死後、その禁が破られた。
すべては思い通りにはいかぬもの。それで良いのだ。

 

ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。


音楽(全般) ブログランキングへ

にほんブログ村 クラシックブログへ
にほんブログ村


2 COMMENTS

雅之

>誰であろう、(悟りを得ない)生身の人間が「聖なるもの」を描こうとすればするほど実際それは「俗なるもの」に限りなく近くなる(堕ちて行く)ということだろう。

だって、ワーグナーが人生最後に辿り着いた結論みたいな作品でしょ。「俗」でもいいではないですか(笑)。

将棋には、「寄せは俗手で」という格言があります。

・・・・・・俗手とは平凡な手と同じような意味合いです。
勝ちが見えてきたら派手な手はいりません。

寄せでは単純で平凡な手ほど好手になることもあります。・・・・・・

http://syougi.ldblog.jp/archives/15779714.html

より

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む