音楽がわれわれの主観に与へる感覚的な印象や心理的な情緒をいか程精緻に分析しても音楽美の真髄に触れることはできない。また、形式解剖だけをたよりに音楽美の究明を行はうとする試みも徒労に終るであらう。われわれに残された唯一の方法は、音楽的現象自体に鋭く肉薄し、音楽構造の核心を衝き、そこから美の真相を端的に把握することあるのみだ。
(1942年7月20日)
~柴田南雄著「日本の音を聴く」(青土社)P374
どんなことであろうと、外側から、また内側から見る目を養うべきだろう。
そして、鋭く肉薄するには命を賭けて臨むこと。何事も。
意外なほどに客観的な「田園」交響曲。第1楽章から終楽章まで風変わりな箇所はなく極めて理想的なテンポで展開される。とはいえ、外から冷静にただ眺めるのでなく、いわば大自然の内側から大自然に肉薄する音楽。大宇宙の細かい襞を大いに描く小宇宙の慧眼。
不思議に温かい。また柔和で明朗。この人は人間が好きなんだと思う。
思ったよりテンポを崩さず、重厚に進みゆく音楽。最後の祈りは誰のどんな演奏より哀しい。それでいて唸り声が聴こえ、踏ん張る足音さえ聞かれるのだ。
山田一雄が命を賭けたベートーヴェン。札幌交響楽団とのツィクルスは、その急逝によって第1番だけ演奏叶わず、愛弟子の矢崎彦太郎の棒に委ねられた最後の輝き。
チクルスが始まると、「運命」や「第九」のような聴きなれた名曲にも、ヤマカズさんは新しい息吹を吹き込んだ。全員が暗譜するほどの演奏回数をこなしている楽団員達だが、このチクルスでは、まるで初めて楽譜を目にするかのような気持ちになって演奏した。全ての楽曲が楽譜の向こうに何があるのかを問いかけるような、そして聴衆に聴いてもらうと言うよりは、その想いがベートーヴェンへ届け!とばかりの渾身の指揮振りに、会場は深い感動とともに打ち震えたのだった。
~竹津宜男「回想~山田一雄と札響のベートーヴェン」(ライナーノーツ)
ベートーヴェン:
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(1991.1.25Live)
・交響曲第8番ヘ長調作品93(1990.10.16Live)
山田一雄指揮札幌交響楽団
一方、第8交響曲は熱い。
死の年のこの演奏は余裕たっぷりで、堂々たるもの。
札響の演奏技術が追い付かないシーンが少々見受けられるものの、内燃する情熱は最後の年のものとは思えぬ。
それこそ山田一雄が「新しい息吹」を吹き込んだ名演奏だろう。
美しいものは滅びはしない。
ここ半月程の間に歴史は急展開した―ファシストとナチの完全な崩壊。
今、たたかひでおごれる心、野心、無智な神秘主義が片っ端から滅びつつある。真と善と美とが制覇しつつある。謙遜な心、神への誠実、科学的な思考力が着実に勝利を占めつつある。戦局の消長とか、政権の隆替とか国家の存亡とかは表面的な現象にすぎない。抽象的な理念が純粋な思考が凡ゆる現実を―政治を戦ひを支配する。
美しいものは滅びはしない。
世界観を持たぬ民族、科学的思考力に欠如した民族の前途は哀れだ。野望は非望だ。彼等が自らの無智を識るにはよき機会となるだらう。ああしかしわれら何といふ日に生を享けたのであらう。
(1945年5月4日)
~柴田南雄著「日本の音を聴く」(青土社)P379-380
「美しいものは滅びはしない」という言葉は、そのままベートーヴェンの音楽に注がれる。
そしてまた、山田一雄の最後の輝きにも同様。
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久しぶりに宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」を読み直したくなりました。
何かを発見できそうな予感がします。
山田一雄&札響の演奏を聴きながら読むのも、なかなかピッタリじゃないですか(笑)。
>そして、鋭く肉薄するには命を賭けて臨むこと。何事も。
・・・・・・ひるすぎみんなは楽屋に円くならんで今度の町の音楽会へ出す第六交響曲こうきょうきょくの練習をしていました。
トランペットは一生けん命歌っています。
ヴァイオリンも二いろ風のように鳴っています。
クラリネットもボーボーとそれに手伝っています。
ゴーシュも口をりんと結んで眼めを皿さらのようにして楽譜がくふを見つめながらもう一心に弾いています。
にわかにぱたっと楽長が両手を鳴らしました。みんなぴたりと曲をやめてしんとしました。楽長がどなりました。
「セロがおくれた。トォテテ テテテイ、ここからやり直し。はいっ。」
みんなは今の所の少し前の所からやり直しました。ゴーシュは顔をまっ赤にして額に汗あせを出しながらやっといま云いわれたところを通りました。ほっと安心しながら、つづけて弾いていますと楽長がまた手をぱっと拍うちました。
「セロっ。糸が合わない。困るなあ。ぼくはきみにドレミファを教えてまでいるひまはないんだがなあ。」
みんなは気の毒そうにしてわざとじぶんの譜をのぞき込こんだりじぶんの楽器をはじいて見たりしています。ゴーシュはあわてて糸を直しました。これはじつはゴーシュも悪いのですがセロもずいぶん悪いのでした。
「今の前の小節から。はいっ。」
みんなはまたはじめました。ゴーシュも口をまげて一生けん命です。そしてこんどはかなり進みました。いいあんばいだと思っていると楽長がおどすような形をしてまたぱたっと手を拍ちました。またかとゴーシュはどきっとしましたがありがたいことにはこんどは別の人でした。ゴーシュはそこでさっきじぶんのときみんながしたようにわざとじぶんの譜へ眼を近づけて何か考えるふりをしていました。
「ではすぐ今の次。はいっ。」
そらと思って弾き出したかと思うといきなり楽長が足をどんと踏ふんでどなり出しました。
「だめだ。まるでなっていない。このへんは曲の心臓なんだ。それがこんながさがさしたことで。諸君。演奏までもうあと十日しかないんだよ。音楽を専門にやっているぼくらがあの金沓鍛冶かなぐつかじだの砂糖屋の丁稚でっちなんかの寄り集りに負けてしまったらいったいわれわれの面目めんもくはどうなるんだ。おいゴーシュ君。君には困るんだがなあ。表情ということがまるでできてない。怒おこるも喜ぶも感情というものがさっぱり出ないんだ。それにどうしてもぴたっと外の楽器と合わないもなあ。いつでもきみだけとけた靴くつのひもを引きずってみんなのあとをついてあるくようなんだ、困るよ、しっかりしてくれないとねえ。光輝こうきあるわが金星音楽団がきみ一人のために悪評をとるようなことでは、みんなへもまったく気の毒だからな。では今日は練習はここまで、休んで六時にはかっきりボックスへ入ってくれ給たまえ。」・・・・・・
>雅之様
「セロ弾きのゴーシュ」ぴったりです!
オーケストラがやったのも第6交響曲ですし。
前日の記事にいただいたコメントの流れから期せずしてシンクロです!(笑)
ありがとうございます。
「セロ弾きのゴーシュ」については酷いコピペで大変失礼しましたが、前回の2回目のコメントを送信した途端に「田園」の新しいブログ本文が目に飛び込んできまして、最近の異常に高いシンクロ率に少し怖くなってきました(笑)。
>雅之様
>最近の異常に高いシンクロ率に少し怖くなってきました
ほんとですね!
以前にもまして濃いコメントをまたいただけることに日々感謝しております。
ありがとうございます。