
若い頃、僕は宇野さんの影響を随分受けていたのだと、音盤棚を見ながらあらためて思った。
鳥羽泰子というピアニストがいる。実演は聴いたことがない。いつぞや宇野さんが、リリー・クラウスの再来だとか、彼女の参加した「大公」トリオは、カザルス・トリオ以来の名演奏だったという言葉を並べていたのを読み、早速僕は彼女の弾くモーツァルトのソナタ全集を手に入れた。
鳥羽泰子のモーツァルト「ピアノ・ソナタ全集」第2巻を聴いて思ふ
鳥羽泰子のモーツァルト「ピアノ・ソナタ全集」第1巻を聴いて思ふ
鳥羽泰子のモーツァルト「ピアノ・ソナタ全集」第4巻を聴いて思ふ
本日、小休止 確かに素敵な演奏であり、美しいモーツァルトだと思った。
ただ僕は、彼女の実演には触れていない。だから、果たしてその真価を僕に云々することはできない。過去の並み居る巨匠、伝説のピアニストたちと同等の、あるいはそれを上回る音楽家であるのか、そこは今となっては正直疑問だ。
しかしながら、朝比奈隆の素晴らしさや、ハンス・クナッパーツブッシュのすごさを世に知らしめたのは宇野さんの功績であることは確かだ。一方、カラヤンの音楽を薄っぺらいと貶したのは宇野さんの罪でもある。何にせよ、他人の意見に翻弄された僕自身の心の問題に気づいた今、やっぱり音楽は自分の耳で確認して確かめる以外に術はないことが身に染みる。
音楽の世界にはまって半世紀ほどが経過する。
僕の耳は肥えたのかどうか。
良し悪しを判断する耳は培えたように思うが、一方で、演奏家それぞれに特長があり、それを独断的物差しで云々するのは危険だということも理解できるようになった。その上で、どんな演奏にも聴くべきところがあると今の僕は思う。
他人の評価など糞食らえ、と岡本太郎はいつぞや言った。
その通りだと思う。
リリー・クラウス、カザルス・トリオ云々、そのあたりの比較評価はともかくとして、今僕はあらためてじっくり鳥羽泰子を聴く。
ザルツブルク時代のモーツァルトの純心、そして無垢。そこにはいかにもモーツァルトらしい、光と翳が交錯する。その心の機微を鳥羽は確かに見事に表現する。
個人的には第4番変ホ長調K.282(189g)と第5番ト長調K.283(189h)を特別に愛するが、その理由は、高校生の頃、ヴィルヘルム・バックハウスの弾いた同曲の刷り込みがあるからだろう(当時、繰り返し聴いたレコードの印象は強烈だった)。
鳥羽の演奏は、第4番、第5番よりもむしろ第1番から第3番に一日の長があると僕は思った。習作を除く、モーツァルトの初期ソナタの魅力は、ワルターが俗見だと語った「ロココの微笑」、まさにその雰囲気が醸される点だと思うのだが、それこそが熟成される前のモーツァルトの特長であり、また聴きどころであるゆえ、そこを見事に彼女は表現し得ていると思うからである。
宇野さんの評はあえて横に置くとして、今僕は率直にそんなことを思う。
