ポゴレリッチのショパン「24の前奏曲」(1989.10録音)を聴いて思ふ

chopin_preludes_pogorelich527曇り空から一滴の水が落ちた。
あっという間に大きな雨粒となり、道路が濡れる。
自然は偉大だ。そうして、今や随分前もってその雨を予報することのできる技術を持つ人間もまた偉大だ。

傘を持っていた僕は、濡れ鼠にならずに済んだ。
ちょうどその時、耳元に鳴っていたのが若きイーヴォ・ポゴレリッチが弾くショパンの「前奏曲集」。ショパン・コンクールでの風変わりな演奏をきっかけに、鳴り物入りで衝撃的なデビューを果たしたポゴレリッチの音楽は、テンポの緩急、ダイナミクスの強弱、表情の明暗など、(実は)どこにも無理がなく、自然だ。
粘るテンポで繰り広げられる1分余りの第7番イ長調の詩情!騒ぐ魂が鎮まるのがわかる。
あるいは、第15番変ニ長調「雨だれ」の凄さ!一定の雨音にのせて、歌われる旋律の哀しみ。そして、葬送のための行進曲のように進みゆく、烈しい打鍵から繰り出される音楽の恍惚。7分22秒の壮大なドラマである。

雨降る夜、ホテルのラウンジの喧騒の中で僕は独り静かに珈琲を喫んだ。
こういう煩さも、集中するのに時にはよろしい。音というものはこの世界になくてはならぬものだ。

続く、最初の和音からほんの一瞬溜めて一気に音吐するがごとくの第16番変ロ短調の奇蹟!また、第17番変イ長調は極めて柔らかく綴られ、理想的なテンポで心地良い。
さらには、第24番ニ短調の、涙なくしては聴けぬショパンの孤独の激情!!

・ショパン:24の前奏曲作品28
イーヴォ・ポゴレリッチ(ピアノ)(1989.10録音)

言葉に表し難い寂しさ。おそらくこれらは作曲家が望んだ音なのだろう。
今のポゴレリッチの音とは明らかに違う、とても真面な音楽。しかし、今から30年前の人々の耳には極めて斬新に(風変わりに)聴こえたようで、当時の批評などをひもといてみても、名だたる評論家諸氏が絶賛をしながらも、どこか戸惑いつつ筆を執っていることがわかって実に興味深い。
ちなみに、「レコード芸術」1981年7月号の、吉田秀和さんの連載「レコード、わが友、わが・・・」第3回には次のようにある。

彼のは、ありきたりのとちがうといっても、いわゆる伝統の手垢にまみれた演奏のほこりを払って、楽譜をもう一度、新しく見直し、そこから作品に秘められた真の生命をひき出してきた演奏というのでもない。そうではなくて、この若いピアニストには、どうしても歌わずにはいられないもの、表現したいものがあって、それを彼は、ピアノに託して、音にしているという感じなのだ。
・・・このユーゴ出身の青年ピアニストには、どうしても、自分が言わなければならないものがあるから、ショパンをこうひいているのではないだろうかと、そういうことを、思うといっているのだ。
ショパンこそ迷惑。そうだろうか?もしかしたら、ショパンはむしろ、自分の音楽がそういうふうに役に立つのも、よろこんで許したのではないだろうか。
・・・ただし、誤解してほしくない。私は、何も、この青年が天才だとか大ピアニストだとか考えているのではない。なるほど、腕の冴えには並々でないものがある。それに何といっても、これだけ変わったショパンをひいて、破綻を感じさせないのだから、音楽性においても、秀でた存在に相違ない。
~「レコード芸術」1981年7月号P22-23

賞讃しつつも、手放しでないところが吉田さんらしい。
しかし、その後の彼を予見するその慧眼についてはさすがだと思う。
確かに、現代のポゴレリッチの音楽はもはや音盤には入り切らないのかもしれない。あるいはマイクに拒否されるのかもしれない。それでもやっぱり彼の音楽は後世に残すべき至宝だと思うゆえ、何とかならないものかと僕は地団太踏む。

 

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3 COMMENTS

ヒロコ ナカタ

岡本 浩和 様

 この記事を読ませていただき、ありがとうございました。吉田氏のコメントもおもしろかったです。
岡本様のコメントを参考にしながら、もう一度ポゴレリッチの前奏曲集を聴いてみたいと思いました。
「それでもやっぱり彼の音楽は後世に残すべき至宝だと思うゆえ、何とかならないものかと僕は地団太踏む。」のところは賛成の拍手喝采ですが、今は、進化の途上だと思われるのですよねー うらやましいです。

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岡本 浩和

>ヒロコ ナカタ 様

いろいろな意味で過去とは(良くも悪くも)まったく別次元の演奏ですから、過去の録音と比較するのはナンセンスなんだと思いますね。ポゴレリッチ自身も過去は葬っているのかもしれません。

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