
その力量とは裏腹に、本人は相当臆病なマインドの持主のようだ。
いつだったか、マルタ・アルゲリッチがベートーヴェンの「皇帝」を披露するというので、僕は興奮してチケットを手に入れた。その日を心待ちにしていたが、残念ながらプログラムは本人の希望で変更され、モーツァルトのニ短調協奏曲K.466に落ち着いた。
もちろんそれはそれで大変な名演奏だったので良かったのだが、それでも僕は、彼女の弾くベートーヴェンの「皇帝」が聴きたかった(その思いは今も変わらない)。
彼女の幼年期の、興味深いエピソードがある。
開演時間は遅く、演奏会が午後9時半スタート、2回の休憩時間を挿むので真夜中まで続いた。小さなマルタにしてみれば、いつまでも終わらず、座席で眠りこんでしまうこともしばしばだった。とはいえ1947年、まだわずか6歳だったが、人生を通じて重要な意味を持つ一夜を経験した。チリ人のピアニスト、クラウディオ・アラウがベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番ト長調を演奏したのだ。最初の数音で、マルタは新しい光を放射された心地がした。崇高な緩徐楽章で、まずピアノとオーケストラが競いあい、そののち、無限とも思えるトリルにのって融合していき、聴いていて髪の毛が根元から逆立つかというほど強く感動した。その後、彼女はこの協奏曲を断固として公開で弾こうとしなかった。この曲はあまりに大きかった音楽的な衝撃を思いおこさせ、それは強烈な体験であり、心的外傷にも似ていた。指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがベートーヴェン《ミサ・ソレムニス》に対して抱いたという思いにも近いのかもしれない。ドイツ音楽の名演で知られる名匠が、この曲の指揮は自分の手には負えないと判断していた節がある。「きっと、触れてはいけないほど神聖な何か。わたしだったら、きっと舞台でそのまま死んでしまうだろうというくらい」とマルタがさりげなく言う。クラウディオ・アバドとシャルル・デュトワがしきりとこの曲を弾かせようとしたが、無駄だった。
~オリヴィエ・ベラミー著/藤本優子訳「マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法」(音楽之友社)P45
アラウ&バーンスタインのベートーヴェン第4協奏曲(1976.10.17Live)ほかを聴いて思ふ 周囲が勧めて一旦はその気になっても、直前になって怖気づき、必ずと言っていいほど彼女は翻意するらしい。ベートーヴェンの協奏曲で重要な第4番ト長調と第5番変ホ長調「皇帝」がレパートリーから欠落しているのは本当に残念だ。
ルガーノ音楽祭から。
十八番のベートーヴェンの、煌めくピアノの音色。
聴けば聴くほど、味わい深い名演奏であるがゆえに、第4番ト長調や第5番変ホ長調「皇帝」が「ない」ことが余計に悔やまれるのである。しかし、ないものねだりは止そう。
今や、(いつの頃からか)彼女の意志はどちらかというと協演、あるいは室内楽に向いている。
ガーニングとのプーランクの、丁々発止の激しさは、若き日のアルゲリッチの劇性を一層強化した傑作のひとつと言える。とはいえ、素晴らしいのは第2楽章ラルゲット!
(これほどプーランクの洒脱を、哀感を訥々と表現し得たデュオがあったかどうか)
あるいは、グルダの息子たちとのモーツァルトは、真にアットホームな印象で、皆が音楽を愉しんでいる様子が手に取るようにわかる(20年前!)。
この曲を僕は前述のコンサートで聴いた。確か、フリードリヒ・グルダに捧げたコンサートでの一幕だったと記憶する(ピアノも同じくパウル&リコ・グルダと分けた)。
マルタ・アルゲリッチは文字通り音楽を楽しみたいのだろうと思う。
そして、それを誰かと分かち合いたいのだ。第3楽章ロンドで協奏曲第21番ハ長調K.467第2楽章アンダンテの有名な主題が木魂する瞬間の可憐さ、そして感動。
