John Coltrane “Live in Japan Deluxe Edition” (1966.7.11 &22Live)を聴いて思ふ

cltrane_live_in_japan487私たちの初めての体験は、特筆すべきことに、神の喪失なのである。私たちはこれまではまだ全と一体で、私たちから何らかの存在が分かれて行くということはなかった―それが今、無理矢理に生み落されたものになり、かの存在の切れ端と化してしまったのである。これからはさらに切りつめられることのないように、そして眼前にますます大きく立ちはだかる反対世界に向かって自己を主張して行くよう努めねばならない。この切れ端は完全なる充溢から、まるで―さしあたっては何かを奪い去って行く―空虚の中へと転落するように、この対立世界の中へと落ち込んで行ったのである。
ルー・アンドレーアス・ザロメ著/山本尤訳「ルー・ザロメ回想録」(ミネルヴァ書房)P1

ルー・ザロメの回想録はこの一節から始まる。
この不世出の哲学者(心理学者)は僕たちの存在のすべてを見通していたということだ。
しかし、それは彼女にもいわゆる「分裂意識」が幼少より厳然とあったことに等しい。
おそらくルーすらも、その「欠如」を埋め合わすことは生涯の中でできなかったのではなかろうか。

私は聖者になりたいと言ったジョン・コルトレーンはとても孤独だったのだと思う。彼の中にある分裂意識は救いようのないものだったのかも。
その言葉が発せられた来日公演の前、すなわち「至上の愛」録音の少し前までわかっているだけで4人の女性との交際を同時に続けていたというのだから恐れ入る。
彼はともかく分裂を音楽行為で埋め合わせようとした。そこに乖離があればあるほど、距離があればあるほど「音楽をする」ことに没頭したのだ。
その行為が年齢を重ねるごとに長尺化したこと、そしていよいよフリー・スタイルにのめっていった姿勢をみてもそのことは明らか。

「ライブ・イン・ジャパン」というものの特別性。
海外のアーティストが滅多に日本を訪れることのなかった時代においては、武道館をはじめとして(あるいは日比谷公会堂?または文化会館?)、日本での公演の象徴となった会場の名を冠するライブ・アルバムは、当時そのことだけでとても価値のある作品として音楽愛好家に認識されたのだといわれる。
ジョン・コルトレーンが没して6年後にリリースされた「ライブ・イン・ジャパン」も、当時のジャズ・ファンを熱狂の渦に巻き込むエネルギーに満ちる大変なものだったらしい。
しかも、あくまで放送用にとアーティスト本人の承諾をとらず放送局によって勝手に録音された代物だったらしいから、妻のアリスもその存在を知って吃驚したそうだ。
それでも、その壮絶なライブ録音をあらためて耳にしたアリスが即座にリリースの許可を出したというのだから鷹揚な時代だったのだと実に微笑ましい。
演奏した本人たちをも唸らせる記録、生涯でたった一度だけ日本の土を踏んだコルトレーンの、一期一会ともいうべき大演奏が、モノラルとはいえ、まるで本人がたった今眼前で神がかったサックス・プレイを繰り広げているのではないかと錯覚するほど音響は鮮明かつエネルギーに満ちており、思わず7月22日の厚生年金会館での公演を、半ば「ながら」ではあるけれど聴き通した時には果たして僕の意識は朦朧としていた。

John Coltrane:Live in Japan Deluxe Edition (1966.7.11 &22Live)

Personnel
John Coltrane (soprano, alto and tenor saxophone and Percussion)
Pharoah Sanders (alto and tenor saxophone, bass clarinet and percussion)
Alice Coltrane (piano)
Jimmy Garrison (bass)
Rashied Ali (drums)

ともかく1曲1曲が長い。コルトレーンの十八番たちがものの見事に分解され(分断され?)、そしてそれらが再構成される際にまったく別の作品として生まれ変わる奇蹟。
それは、この録音にも刻印される、我を忘れたように吹きまくるコルトレーンのサックス・プレイに呼応するかのようにその日その場にいた聴衆の信じられない熱狂が錯綜する、いわば再放送なしのドラマであり、それを外部から客観視しながらも、ついその中に巻き込まれてしまう麻薬のようなもの。何という不思議な感覚!!

25分超の”Peace on Earth”は、コルトレーンが記者会見で述べた「愛」という意識にまさに包まれ、終始音楽は優しい。

うん、それはわたしには区別はできません。結局はどれをとっても、イエスの愛であり、釈迦の愛であり、クリシュナの愛であり、その全てかもしれません。この場合の愛は、そういった区別ができない。全てを包括したマニフェステイション(顕現)であると考えます。
(1966年7月9日土曜日、共同記者会見)
~UCCI-9191/5ライナーノーツP18

続く45分弱の”Leo”では、いよいよコルトレーンのプレイが時空を超越し、肉体を脱却、ただ音のうねりだけと化す瞬間が散見される。聴衆が息を凝らし、ただ一点だけを見つめ、その音だけに集中する様がよくわかる。これはもう聴く者も必死だろう。
(当時は一般的にコンサートの最初と最後にはMCが入ったようで、この”Leo”の後にも司会者による演奏者への労いの言葉が残されており、真に興味深い)
そして、何と1時間近くにも及ぶ”My Favorite Things”では、ジミー・ギャリソンの静謐なベース・ソロ(15分!)の後に、アリスのピアノとともにコルトレーンのサックスが吹かれるが、なかなか主題の旋律は現れない。3分後に例の旋律が出た後も、ほとんど別の曲の如くすぐさま変容、他の楽器と複雑なコラボレートを体現し、音楽はいよいよ深い淵へと入り込んでゆく。異様だ。

ちなみに、コルトレーンは(今でこそ珍しくない)ベジタリアンだったが、そのことについて「野菜だけでどうやってその体力を維持していけるのか?」という質問に彼は次のように答えていることが興味深い。

なによりもスピリチュアルな理由です。(野菜を食べていると)穏やかな人間になれるから。イライラしなくなる。だからといって、そうなれるかどうかはわかりませんよ(笑)。自分の経験からわかったことですから。今は衝動や感情が抑えられるようになり、ストレスが減りました。体も肉を消化する労力が省けて、エネルギーが増えましたよ。
(1966年7月9日土曜日、辻本和明氏によるプライヴェート・インタヴュー)
~同上P25

さすがである。素敵だ。今から50年も前のこと。

 

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4 COMMENTS

雅之

ご紹介の伝説的ライブは、ちょうど同じく伝説的な特撮ヒーロー番組『ウルトラマン』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%B3

の放送が始まった記念すべき時期と、ほぼ重なりますよね(前夜祭1966年7月10日、第1話 7月17日)。

私には、コルトレーンの分裂は、『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』(昔、確か「ノンマルトの使者」のことを話題にしたことがありましたね)の世界観を決定付けた不世出の脚本家、金城哲夫

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%9F%8E%E5%93%B2%E5%A4%AB

の分裂と、強烈にオーバーラップしてきます。

メフィラス星人「貴様は宇宙人なのか、人間なのか?」
ハヤタ(=ウルトラマン)「両方さ」

『ウルトラマン』第33話より

返信する
岡本 浩和

>雅之様

なるほど!僕としたことが気づきませんでした。
金城さんとのオーバーラップについても納得です。

ちなみに、来日の10日前には武道館でビートルズが来日公演をやってるんですよね。
日本が熱かった66年夏です。

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Led Zeppelin "The Soundtrack from The Film The Song Remains the Same" (1976) | アレグロ・コン・ブリオ へ返信するコメントをキャンセル

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