ブーレーズのメシアン「われ死者の復活を待ち望む」(1966.1録音)ほかを聴いて思ふ

オリヴィエ・メシアンとの劇的な出逢いについてピエール・ブーレーズはかく語る。

1人の師の持つ皇帝然とした説明しがたい印象によって、その師のもとへ突然引き寄せられた。彼こそが、作品の呼び起こす錬金術や人間的輝きによって、また即座の意思疎通や模範としての絶大な力によって、あなた自身のことをあなたに対して明らかにしてくれるのだ。
ヴェロニク・ピュシャラ著/神月朋子訳「ブーレーズ―ありのままの声で」(慶応義塾大学出版会)P15

絶対的服従とでも言わんばかりの尊敬の念が反映される。
ブーレーズは、メシアンのクラスで特に学んだことは、「聴き取った響きを構造化し、もっとも複雑な和音を分析し、音響体のイメージを知的に構築すること」だったという。とにもかくにも「聴くこと」の訓練ということだ。

ところで、若きブーレーズは、当時、オンド・マルトノを頻繁に演奏し、またこの楽器のための作品もいくつか作曲したが、かなり早い段階で興味を失ったようである。

電子工学的手段との出会いによってひきおこされる本当の災禍は、自分の受けた教育や自分自身の体験によってなじんできた作曲家の音響的な概念が、すべてひっくり返されてしまうことである。作曲家に課せられていた諸々の限界の完全な逆転というよりはむしろ一種の陰画が生じるといった方が良いだろう。
~同上書P38

意外にも保守的な面が彼にあったとも考えられる。ブーレーズが「トゥーランガリラ」を録音しなかった理由は、オンド・マルトノが活躍するその音響に否定的な見解を持っていたからなのかもしれない。

しかしながら、ブーレーズが指揮するメシアン作品は、知的でリズムに溢れ、どれもが師への普遍的な愛が感じられ、とても素晴らしい。

メシアン:
・「われ死者の復活を待ち望む」
・「天の都市の色彩」
イヴォンヌ・ロリオ(ピアノ)
ストラスブール・パーカッション・グループ
ピエール・ブーレーズ指揮ドメーヌ・ミュジカル(1966.1録音)

聖書から引用された標題を持つ5つの楽章をもつ「われ死者の復活を待ち望む」は、第二次大戦の戦没者を追悼するために委嘱を受け作曲されたものだが、文字通り音楽は重く、阿鼻叫喚と祈りに満ち、一度聴いたら旋律が耳から離れなくなるほど険しいもの。途中、ガムラン風の音調も登場し、西洋と東洋の融合が図られる。特に、ゴングとチューブラー・ベルが使用された終曲「私はまた、大群集の声のようなもの・・・を聞いた」の圧倒的フィナーレに魂が震えるほど。

まるでバッハのような音楽が静寂の中から湧き上がる様。
キース・ジャレットは観客に、何より静けさを要求する。彼のコンサートはそれこそ神聖な儀式なのである。ちなみに、2014年5月の大阪公演では、彼は観客のマナーが悪いと、演奏を幾度も中断し、最後はキレて、演奏もそこそこに止めて帰ってしまったという。

私は何もないところから音を紡ぎ出しています。そこで皆さんにはたった一つ仕事をして欲しい。その何も無いというところに協力をして欲しい。

神経質といってしまえばそれまでだが、確かにキースのこの言葉には説得力がある。実際僕も、コンサート会場ではほとんど息を止め、微動だにせず耳を傾ける方で、ちょっとした音にも感興を削がれるくらいだから、即興パフォーマンスをする演奏者の立場ならなおさら。

・Keith Jarrett:Paris Concert (1988.10.17Live)

Personnel
Keith Jarrett (piano)

大阪公演の2ヶ月後のパリでのコンサートは大変な事態になったそう。
聴衆の咳払いに、演奏中に写真を撮影する者までも出たそうで、さすがのキースもこれには即刻演奏を中止したのだとか。

30年前の、サル・プレイエルでのソロ・コンサートの、水を打ったような静けさに感動すら覚える。この静寂ゆえに、演奏が終わった後のため息交じりであろう喝采と歓喜の絶叫が一層浮き彫りになるのである。これこそ演奏者と聴衆の美しき一体。

現代の喧騒に生きる僕たちには、静けさの中で「聴くこと」に集中する時間が必要だ。
そしてまた、「聴くこと」を訓練しなければならない。

 

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