ジュリーニ指揮ウィーン・フィルのフランク交響曲ニ短調ほか(1993.6Live)を聴いて思ふ

franck_giulini_vpo492ぼくらが真に人間に関して感動するのは、卑小な人間の内部に、大きな力が働いているのを見るときだ。言葉についても同じことなのである。つまりぼくらは「表現」にまで高められたものに感動するのであって「描写」に感動するのではない。

大岡信の詩論のこの一節を引用し、武満徹は語る。

ここにのべられている言葉の状態を音の場合に置換えて考えることは無意味ではない。音楽のもたらす感動は言葉を超えた地点にあり、それだから、私たちはそこに意味を見出すのだ。
(自然と音楽―作曲家の日記)
「武満徹著作集1」(新潮社)P62-63

感動の源は「表現」だとする大岡信の言葉に、そしてそれを音楽に置換する武満徹の慧眼に心打たれた。

重厚でゆったりしたテンポなのにまったくだれることがない。
音楽がそれを求めているのかと言えば、さにあらず。
この際、速度などどうでも良い。大事なのは内なる魂だ。
これこそカルロ・マリア・ジュリーニの「表現」。ウィーン・フィルの奏者たちが指揮者を信頼し、見事な音の綴れ織りを成してゆく。美しさの極み。自然の体現。

フランク:
・交響曲ニ短調
・ピアノと管弦楽のための交響的変奏曲
ポール・クロスリー(ピアノ)
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1993.6.11-14Live)

第1楽章レント;アレグロ・マ・ノン・トロッポからざっくばらんで明るい。フルトヴェングラーのような内燃する仄暗い熱は帯びず、ひたすらエネルギーが外に放出される。
また、第2楽章アレグレットは、セザール・フランクの(ロベルト・シューマンにも似た)愛らしい歌であり、ここでジュリーニも想いを一層込める。こういう楽想は、どちらかというとウィーン・フィルの曖昧な音にぴったりなのかも。さらに、第3楽章アレグロ・ノン・トロッポの柔らかさ。音楽は決してだれず、滔々と流れる。
興味深いのは全体の見通しの良さ。主題が全編にわたり有機的に絡み、循環形式ならではの一体感を紡ぎ出す。

そして、一層素敵なのが「交響的変奏曲」。何より(短い管弦楽の前奏に続いて奏される)クロスリーの暗いながら変幻自在かつ煌びやかなピアノの微細な音の美しさ。そしてジュリーニ率いるウィーン・フィルハーモニーとの円やかな調和。
内にある作曲者の喜怒哀楽すべての感情の発露とでも表現しようか、主題提示から5つの変奏すべてが意味深く響く。

あらためて武満徹をひもとく。

意味が言葉の容量を超える時におこる運動を名附けて私は吃音と呼んだ。言葉はちゃちな日常的規律にしばられているために、もはや眩暈するような非現実を描きだし得ない。人間は言葉を発明することで指示的な意味にしたがって思考するという習慣が身についてしまったが、思いがけずも個人の人生と社会はそんなに単純ではなかったから、語彙は繁雑に増えるばかりなのである。そして、社会と人生に言葉が多くなれば、ふるいの網目は反って荒くなり、類・科・目の分類を滑り落ちて真実は益々遠ざかる。
(吃音宣言―どもりのマニフェスト)
~同上書P87

やはり言葉は不要だ。いや、最低限あれば良い。
それよりも真実を見据えよと武満は言う。
言葉を持たない音楽に真実はあるのか否か?武満徹は続ける。

芸術上の現実性とは非現実のことであり、言葉では補えない多層な表出性をもつべきものだ。芸術にたいせつなのは事実であり、そのために芸術家は注意ぶかく嘘を計画すべきなのである。そして、それをなし得るためには真実への欲望を偽ってはならない。
~同上書P87

何というジレンマ!しかし、言葉でなくあえて音で芸術を構築するという点では、音楽は「非現実」を現実化する方法としてベストなのでは?
ジュリーニはひょっとすると真実に肉薄した音楽家だったのでは?とフランクを聴きながらふと思った。
聴衆が熱狂する。

 

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5 COMMENTS

雅之

>芸術にたいせつなのは事実であり、そのために芸術家は注意ぶかく嘘を計画すべきなのである。

という武満の言葉には重みがありますね。芸術はマジック同様、人間の錯覚を利用した巧みな嘘を効果的に採り入れている面が大きいと思います。フルトヴェングラーなどは、同じテンポでも、一般道路を80キロで暴走する時と、高速道路で80キロに減速する時のスピード感覚の差みたいな錯覚を上手に使い分けていました。

ウィーンPOの弦楽器奏者の一人一人のチューニングは合っていないのに、全体では信じられないくらい美しく聞こえる、というのも高度な錯覚利用法でしょうね。音楽に限らず、芸術全般では錯覚という嘘の効果的な使用で、現実性という「非現実」に説得力を持たせている例が無数にありますね。

※突然ですが岡本様に問題です。

宇和島のある旅館に、ハイドシェックのリサイタル帰りの客が3人泊まりました。その旅館は1泊1万円です。客は1泊したので旅館を出るときに3人合わせて3万円を仲居さんに渡しました。仲居さんはその3万円を女将のところに持っていくと、女将は「昨日は音楽に詳しいお客さんたちから楽しい話をたくさん聞けたので、特別に5000円だけサービスしてあげましょう。この5000円をお客さんに返してきてください」といって仲居さんに渡しました。

仲居さんは3人では5000円を分けることができないと勝手に考え、 その5000円のうち2000円をこっそりとくすねてしまいました。そして、お客さんには1人1000円ずつ返しました。
客の3人は「宿泊費は9000円になったんだね、得しました。ありがとう」言い、旅館を後にしました。

しかし、3人の払った代金は27000円。仲居さんが取った2000円を合わせても
29000円にしかなりません。残りの1000円はどこに行ったのでしょうか?

どうせなら、気持ちよく騙されたいものですね(笑)。

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岡本 浩和

>雅之様

バタバタですっかりこのコメントに返事を忘れていました。

>芸術はマジック同様、人間の錯覚を利用した巧みな嘘を効果的に採り入れている面が大きいと思います。

その通りですね。語弊があるのですが、宗教というのも意外に同じことなのかもしれません。

>どうせなら、気持ちよく騙されたいものですね(笑)。

はい、問題をありがとうございます。これ知っておりました。同じく気持ち良く騙されたいと思います。(笑)

返信する
雅之

>これ知っておりました。

そこまでは、織込み済みです。まだまだ甘いですね、隠しネタに気づかれないとは(笑)。

この話の元ネタは、内田百閒(1889年5月29日 – 1971年4月20日)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E7%99%BE%E9%96%93

の小説「特別阿房列車」に出てきます(ご存じ?)。

フランクの交響曲は、1889年2月17日、パリ音楽院で初演さました。内田百閒が生まれたのと同年、わずか3ヶ月ちょっとの差というわけです。

返信する
岡本 浩和

>雅之様

あれま!やられました!!降参です(笑)
なるほど、内田百閒ですか!!しかし、ご紹介の小説はしりませんでした!
さすが博学雅之さん!
ありがとうございます。

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