全編に及ぶ甘美な旋律に恋の官能を思う。
しかし、それは死をもってしても成就し得ない悲劇であった。そもそも最後は男がピストルで自殺するのである。思い詰めた上での行動であったにせよ、自分の正しさを女に、そして世間に暗に伝えようとした「我(エゴ)」が見え隠れする。物語そのものが、エゴイストの恐ろしい妄想だという捉え方もあるが、実際シャルロッテはウェルテルを心の奥底では愛していたわけだから相思相愛であった。それでも悲しいかな、様々なしがらみに縛られていたあの時代においては二人が結ばれることは決してなかった。
ゲーテの原作をひもとくと、ウェルテルのこれほどまでの愛の炎の激情が、ジュール・マスネの手によってワーグナーの「トリスタン」ばりに音楽に投影されていることがわかる。
いな、けっして自分を欺いているのではない!あのひとの黒い眼の中には、私と私の運命へのいつわりならぬ共感が読みとれる。たしかに、私は感ずる。この点では自分の心を信じていいのだが、ロッテは―。おお、この至福をこの言葉でいっていいのだろうか?いうことができるのだろうか?―ロッテは私を愛している!
~ゲーテ作/竹山道雄訳「若きウェルテルの悩み」(岩波文庫)P52
何という哀しみ!自らに言い聞かせんとする「理想的結末」に、ウェルテルの自信どころか、自己不信すら浮かび上がるほど。
ロッテは私にとって神聖だ。その前にあっては、一切の欲念は沈黙する。そのかたわらにいるとき、心ははやここにはなく、あらゆる神経の中に魂が顚倒する。―あのひとにはあるメロディがある。それをピアノの上に天使の力もて奏でいでる。素朴に!魂をこめて!あのひとが愛するあの曲、ただそのはじめの一つの符が鳴りいでるとき、それは私をあらゆる苦悩、錯乱、懊悩からときはなつ。
古き代の音楽の魔力について語られる言葉は、一つとして偽りではない。ただ、あの単純な歌がどうしてこれほどまでに私をとらえるのだろう。ロッテはどうしてそれをうたいいでるのだろう。
~同上書P53
心底好きな女性には絶対に手を出せないと言う男が多いが、もはや相手は女ではなく神だったのである。それにしてもウェルテルがシャルロッテに感じた「音楽」とはどんな音楽だったのだろう?
マスネ:歌劇「ウェルテル」
ロベルト・アラーニャ(ウェルテル、テノール)
アンジェラ・ゲオルギュー(シャルロッテ、メゾソプラノ)
トーマス・ハンプソン(アルベール、バリトン)
パトリシア・プティボン(ソフィー、ソプラノ)
ジャン=フィリップ・クルティ(法務官、バス)
ジャン=ポール・フシェクール(シュミット、テノール)
ジャン=マリー・フレモー(ヨハン、バリトン)、他
ティフィン少年合唱団
アントニオ・パッパーノ指揮ロンドン交響楽団(1998.8録音)
第3幕前奏曲の、不穏な空気に包まれた、しかしエロティックな響きに心奪われる。一貫して勢いのあるアラーニャのウェルテルの見事さ。欲を言えば、少々健康的に過ぎるのが難。もう少し病的な「暗鬱さ」が表出されていればなお一層良かったのだけれど。
ウェルテルのオシアンの歌「春風よ、何故私を目覚ますのか?」の、切ない想いの表現がたまらない。
僕の魂はここにある!
どうして目覚めたんだ、春の吐息よ。
どうして目覚めたんだ?
僕は額に、お前が触れるのを感じ
嵐と悲しみが
近づいているのを感じるんだ
どうして目覚めたんだ、春の吐息よ?
谷間を旅するお前にも、明日はやってくる
僕の幸せだった日を思い出し
僕の栄光の日を無駄に追い求める
でも見つけるのは悲しみとみじめさだけ
ああ!
どうして目覚めたんだ、春の吐息よ?
~ウェブ・サイト「オペラ対訳プロジェクト」
ここの部分、ゲーテの原作はかくの如し。
なにゆえにわれを呼び醒ますのか、春の風よ!そよぎきたって、媚びていう、われは天国の雫もてうるおす!と。さるを、わが凋落のときはちかく、わが葉を吹きちらす嵐はせまった。明日、さすらい人はきたるであろう。かつて華やかなりし日のわが姿を見た人はきて、野のここにかしこにわれを求めるであろう。求めて、われを見いでぬであろう―
~同上書P164
何たる自虐。しかしながら、マスネの音楽は最高に美しい。
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