端整、かつ冷徹なワーグナー。
淡々と紡がれるその音楽はあっけない。しかし見事に澄んでおり、しかも内燃する熱量は他を冠絶する。
例えば、「指環」から抜粋で奏された管弦楽曲は、テンポといい、フレージングといい、いずれもが実に理想的な響きでワーグナーの音宇宙を完璧に再現する。
完璧主義者ジョージ・セルの面目躍如。
恐怖の独裁者(?)であったがゆえの完全無欠。
出色は「黄昏」からの「夜明けとジークフリートのラインへの旅」と「葬送行進曲」。この圧倒的なスペクタクルを舞台なくして聴かせる妙味。ちっともうねらない「葬送行進曲」の不思議な意味深さ。管楽器が吼え、打楽器が轟き、弦が崇高な調べを歌う。
「第5交響曲」であれ、「トリスタン」であれ、「マイスタージンガー」であれ、どんな演奏も、たとえそれがどれほど申し分のないものであっても、ある程度まで冷静に聴いていられる。ところがリヒャルトがベートーヴェンについて語ったり、自分の構想を初めて打ち明けてくれたりすると、わたしは恍惚状態に陥ってしまう。聞き手の立場におさまっていられず、あたかも自分がその場面から遊離して、それを外から眺めているような感じになるのである。リヒャルトも、まったく同じ感覚があると言う。「ニーベルンゲン」の劇場ができたあかつきには、わたしたちは喜びながらも、それを冷静に見つめ、外から観察するようにして体験することになるだろう、と。「わたしたちに現実の劇場は必要ない。わたしたちの喜びはイデアの世界にあるのだから」。
(1871年5月21日日曜日)
~三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記2」(東海大学出版会)P436-437
ワーグナーは無意識で作曲していたのだろうか。
生み出された音楽は、どれもが自身の子であり、また神の子でもあった。
そこにはおそらく「主観」はない。だからこそ、セルの客観的な音楽が生きるのだ。
ワーグナー:
・楽劇「ラインの黄金」~ワルハラ城への神々の入城(1968.10.11-12録音)
・楽劇「ワルキューレ」~ワルキューレの騎行(1968.10.11-12録音)
・楽劇「ワルキューレ」~ヴォータンの魔の炎の音楽(1968.10.11-12録音)
・楽劇「ジークフリート」~森のささやき(1968.10.11-12録音)
・楽劇「神々の黄昏」~夜明けとジークフリートのラインへの旅(1968.10.7録音)
・楽劇「神々の黄昏」~ジークフリートの葬送行進曲と終曲(1968.10.7録音)
・楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲(1962.1.26録音)
・楽劇「トリスタンとイゾルデ」第1幕前奏曲とイゾルデの愛の死(1962.1.26録音)
ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団
一方、「マイスタージンガー」前奏曲の内なる歌。
音楽は極めて流麗で、それでいて一秒たりとも無意味な箇所がない。
リヒャルトはコジマに語る。
「マイスタージンガー」の第2幕のフィナーレを作曲していたときは、ほんとうに苦しかった。きみがここから去って行ったからだ。きみは信じようとしないだろう。以前だって立派に仕事をしていたではないかと言うかもしれない。たしかに昔は自力でなんとかやっていた。しかし今ではきみが頼みの綱だ。
(1871年6月28日水曜日)
~同上書P482
コジマに出逢って以降のワーグナーはコジマを必要とした。主観と客観が交錯する不思議な(イデアの)世界は、いわば二人だけの秘密の世界であり、彼らのもとに生み出された音楽たちはそれこそ彼らの脳内で常に恍惚と鳴り響いていたのだろう。
なるほど、セルのワーグナーにはその「恍惚」が伏している。だから感動的なのである。
ちなみに、「トリスタン」については、残念ながら少々弱い。この音楽はもっとどろどろと官能的でなくては・・・。愛の炎が燃え尽きようとするクライマックスでいまひとつ解放されないもどかしさが僕には感じられる。
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