もはや恐れるものなど何もないという態の、近寄り難い、楽聖最晩年の音楽たち。間違いなく当時の人々は戸惑った。もちろん常人の理解の範囲を遥かに超えていた。
一音一音確かめるように歩が進められ、大いなる設計図のもと昇りゆく、「ハンマークラヴィーア・ソナタ」の名状し難い透明なアダージョ・ソステヌートの調べ。この20分近くを要する壮大な音楽は、人間の手によって生み出されたものとは到底思えない。
このところ、作品106については内田光子が録音したものを手に取ることが多い。あの、シューベルトの最後のソナタで彼女が見せた、虚ろで青白く不健康な音調が、楽聖のこの楽章においても顕著で、例えば第1主題の中間楽節に突如ひらめく長調の調べとの対比によりそのことが一層明らかなものになる。深々と沈みゆく絶望の合間に垣間見える一条の光は、この世が決して暗黒に染まったものでなく、ベートーヴェンの常々言う善行によってすべてが救われることを見事に言い当てるようだ。
続く終楽章の、序奏に見られる哲学的想念を打ち払うように、主部では難解な3声のフーガが完璧なコントロールによってリアルな音像として再現される。コーダの、一旦静まるポーコ・アダージョの部分はそれこそ内田光子の崇高な祈りの世界。
ベートーヴェン晩年の世界観は概ね同じような雰囲気を醸し出すが、ラサール四重奏団が1970年代に録音した後期四重奏曲にも、内田のこの演奏が示したものと極めて近いものが感じられる。特に作品130の第5楽章カヴァティーナ(アダージョ・モルト・エスプレッシーヴォ)の安寧と、終楽章第大フーガのあまりに巨大で峻厳な響きの強烈な対比に背筋が凍るほどの「完璧さ」を聴くのである。4人の類稀な奏者によるぶつかりと調和のバランス、そして時に役割を交替しながら各々がそれぞれの役割を果たし、ひとつの天才的伽藍を創り上げるという奇蹟。
指揮者のいない弦楽四重奏団においては、奏者それぞれが(パート)リーダーだ。
クリスティアン・ガンシュ著/シドラ房子訳「オーケストラ・モデル―多様な個性から組織の調和を創るマネジメント」には次のようにある。
オーケストラ演奏の基礎は、常に互いに聴き合うことにある。この決定的な要素なくして演奏は成り立たない。
P125
各楽器は、主旋律を受け持つこともあれば、主旋律のコントラストをなす対旋律を受け持つこともある。対旋律は、主旋律に対立することによって主旋律を引き立たせる。・・・すべてが相互作用であることを、全員がいつも意識している。これなくして、ソロ奏者同士のかけ合いは成立しない。
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弦楽四重奏というジャンルは、おそらく指揮者がいるオーケストラ以上に(当然)個々の責任が大きいのでは?そんなことを考え、彼らの演奏に没頭した。
ベートーヴェン:
・弦楽四重奏曲第13番変ロ長調作品130(原典版:大フーガ変ロ長調作品133付)(1972.12.14-19録音)
・弦楽四重奏曲第13番第6楽章(1826年作曲)(1976.12.2-6録音)
ラサール弦楽四重奏団
ウォルター・レヴィン(第1ヴァイオリン)
ヘンリー・メイヤー(第2ヴァイオリン)
ピーター・カムニッツァー(ヴィオラ)
ジャック・カースティン(チェロ)
各々が各々を立て、敬い、演奏した、ベートーヴェンが会心作だといった第5楽章カヴァティーナの美しさは空前絶後。粘り過ぎず、逆にあっさりし過ぎることもなく、音楽が滔々と奏でられる。なるほどここに在るのは極めて人間臭い感情を伴った楽聖の過去への憧憬だ。何とも柔らかいポルタメントの多用がそのことを一層強調する。
そして、ベートーヴェンが最も力を注いだであろう魑魅魍魎、複雑怪奇の「大フーガ」。どちらかというと軽快かつ明朗に、そして緊張と弛緩のバランスをうまくとりながら音楽が成される様に全盛期のラサール四重奏団の内側に在った「信頼関係」というものを見る思い。
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