我が至上の愛

coltrane_a_love_supreme.jpgエリック・ロメール監督が「すべてやり尽くした」と宣言し、引退の意を表したらしい。最後の作品となる「我が至上の愛~アストレとセラドン」がまもなく公開されるようだが、これは観ないと、だ。
特にフランス映画を偏愛しているわけでもない。ましてやロメール映画の特別なファンだというわけでもない。もう20数年前になるだろうか。初めてエリック・ロメールの名に触れたのが「緑の光線」という作品。ほとんど起伏のない、まったりと時間が過ぎてゆくドキュメンタリー・タッチの映画。何となく観ていると見落としてしまうほどある意味「何も起こらない」。勝手気ままで孤独な女性主人公(名前も忘れた)が旅をして、行く先々で出くわす出来事の羅列(ただし、そういう女性でも、初めて意気投合する青年と出会ったときには幸せを感じるらしい・・・)。
夕方、海辺を歩く二人は沈む夕陽に「緑の光線」をみつける。「緑の光線」とは、ジュール・ヴェルヌの小説タイトルで、その中で、太陽が沈む瞬間に放つ緑の光線は幸福の印だということが記されている。

どんな手段を使っても、人は人と一体化したいと願うもの。それは飲み会でもいい、あるいはスポーツでもいい。音楽でいうなら合奏、または室内楽を通して・・・。
本日の研修でも、組織活性化の方法として、拙いながらも僕流のコミュニケーション論を展開させていただいた。少々話し過ぎたきらいもあるが、実習をみっちり組み込んだので、それなりにご体感いただけたことだろう。

たとえ短い時間でも深く相手を受容し、自らを開いて伝えることで、人間の関係は一層緊密になる。わずか33分という時間の中に、コルトレーンは4つの異なる物語を織り込んでアルバムを制作した。

John Coltrane:A Love Supreme

Personnel
John Coltrane(ts)
McCoy Tyner(p)
Jimmy Garrison(b)
Elvin Jones(ds)

「至上の愛」と題するコルトレーン・カルテット黄金期の傑作。1964年(僕の生まれた年!)、コルトレーンはしきりに瞑想し、ある時完全な静寂の後、突然彼の内部に音楽が充満するという不思議な体験を得た。そのことが、この至上の存在への献曲につながったということらしい。哲学的、宇宙的なものでも、この「言葉をもたない」音楽(厳密にはA Love Supremeというフレーズが連呼されるが)は決して難解ではない。むしろ不思議なくらいスーッと身体に入ってくる。

いわゆるモダン・ジャズの世界でコルトレーンは「やり尽くした」感をもっていたのだろう。このアルバムを最後に、彼はいよいよフリー・ジャズの世界に足を踏み入れてゆく。


3 COMMENTS

雅之

おはようございます。
コルトレーンというと、今から30年ほど前、当時受験勉強をしながら聴いていたラジオの深夜番組「オールナイト・ニッポン」で、タモリが露骨に嫌悪感を示していたのを、鮮明に覚えています(名古屋のこともね・・・笑)。団塊世代などある年齢から上の人にとっては、自由を求めて参加した学生運動とその挫折などと重ね合わせ、コルトレーンに傾倒していた自分を気恥ずかしく感じる、といった思いのある向きも多いようですね。
「至上の愛」は、まるで4つの楽章のようです。古いジャズ・マニアから何を言われようが、私は好きです。
ラヴィ・シャンカールからの「インド哲学」の影響も、ジョージ・ハリスンのそれと共に興味があるところですが、これ以上は勉強不足で多くを語れません。

返信する
岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
タモリのオールナイト・ニッポンは懐かしいですねぇ。僕も当時よく聴いてました。ただ、コルトレーンを露骨に否定していたというのはあまり覚えがないです。
僕も語れるほど詳しくないですが、インパルス時代のコルトレーンのレコードはことごとく名盤だと思います。特に、この黄金カルテット時のものは最高ですね。
>「インド哲学」の影響も、ジョージ・ハリスンのそれと共に興味がある
確かに当時のアーティストは結構「インド哲学」の影響を受けてるようですね。残念ながら僕も勉強不足です。

返信する
今日は映画気分!

我が至上の愛 ~アストレとセラドン~

5世紀のローマ時代。純粋な愛を育む羊飼いの少女アストレと青年セラドン。しかしアストレは、祭の日に別の女性と踊っているセラドンを見て、浮気をしたと疑い「私の…

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む