今夜は雨という予報だったので一応傘を持って自転車で出かけた。
遅くても夕方には帰れるはずだから使用するつもりはなかったのだけれど。
ところが、所用の後戸外に出てみると、雨。大したことはないが、すでに・・・雨(涙)。
よって傘を差しながらの片手運転。普段より運転に注意力を要する。
こういう時に限ってまた不穏な(?笑)音楽が頭を駆け巡る。
昨日に続いてムラヴィンスキーでも引っ張り出そうと思っていたのだけれど、マッコイ・タイナー・トリオを聴いた直後から頭の右半分でジョン・コルトレーンが響いていたからか、雨風を吹っ飛ばすかのようにあの強烈なテナー・サックスの音。
せっかくだから、いわゆる後期コルトレーンの入口に位置する名盤でも聴いてみようと久しぶりに耳にしたら、嵌った。
あるインタビューで、「自分を理解しない人に関して」という質問に対してコルトレーンは次のように答えたという。
「解決策はないと思う。これは時間の問題か、何べんも繰り返して聴くことか、あるいはぜんぜん理解しないまま過ぎるかだ。人生にはこんなことは他にも数多くある。」
まったくもって正論。とはいえ、僕は時間の問題ではないように思う。要はわかるかわからないか。この答だけでコルトレーン・ミュージックの大いなる価値が理解できる。
Personnel
John Coltrane (ts)
Pharoah Sanders (ts)
Donald Garrett (bcl, b)
McCoy Tyner (p)
Jimmy Garrison (b)
Elvin Jones (ds)
Frank Butler (ds, perc)
Juno Lewis (perc, vo)
黄金クヮルテット期からフリー・ジャズ期に移行するちょうど過渡期の録音で、このアルバムに収録されている3曲には時期の隔たりが半年ほどある。その間のコルトレーンの思想の変遷が見事に垣間見ることができ興味深い。
僕は「クル・セ・ママ」を聴く時、いつもあえて逆順に聴くようにしている。その方が断然面白いから。
すなわち、黄金クヮルテットの4人で1965年6月10日に収録した”Welcome”から。
冒頭のマッコイのピアノから涙が出るほど美しい。それに「祈り」のようなコルトレーンのテナーの響きときたら・・・。おそらく当時のジャズ・ファンの多くはこういう響きを求めていたんだろう・・・(これによって黄金クヮルテットの幕は閉じられるが、何やらクリムゾンの”Starless”を髣髴とさせる)。しかし、そうは問屋が卸さぬとばかりにコルトレーンが吠え、唸る・・・、何とエルヴィン・ジョーンズとのデュオである2曲目”Vigil”(1965年6月16日録音)。コルトレーン自身が「自分の内外にある有害な要素に対する警戒心を表現した」というこの音楽に在るのは「闘い」以外の何ものでもない(それも自己に打ち勝とうとする闘い)。
そして、最後にタイトル曲の”Kulu Sé Mama”。いわゆるワールド・ミュージックのはしり。
ジュノ・ルイスによる「母への讃歌」であるエンテベ語の呪術的歌唱の内容がわからないことが悔しいところ。
ちなみに、ジュノはヴォーカルだけでなくウォーター・ドラム、ベル、貝殻などのパーカッションも披露しているが、それを聴いていると、こちらもクリムゾンの”Lark’s Tangues”を思い出す。まさにあの時のジェイミー・ミューアのような・・・。
リリース当時は賛否両論だったようだが、屈指の名盤だと僕は思う。