アバド指揮ベルリン・フィルのマーラー交響曲第6番(2004.6Live)を聴いて思ふ

mahler_6_abbado_bpo_2004588グスタフ・マーラーは常に「最善が何か?」を考えていた人なのだろう。
しかし、人間というもの、人生というもの、答はひとつではない。十人いれば十通りの、百人いれば百通りの答が存在する。(だから人生は面白い)
マーラーの苦悩の根源は何事においてもひとつの答を求め過ぎたことだと僕は思う

幸福の絶頂にあった時期においても作品の推敲に余念なく、彼は自作を指揮するたびに試行錯誤を繰り返した。例えば、1906年から07年にかけて各地で初演された交響曲第6番についても、中間楽章の順序の入れ替え、あるいは終楽章のハンマーの回数など、一転二転した。
マーラー自身による第6番の最後の指揮となるウィーン初演(1907年1月4日)は、予告が「アンダンテ→スケルツォ」であったにもかかわらず、実際には「スケルツォ→アンダンテ」で披露されたことを根拠に、それがマーラー自身の最終結論だとする意見が大勢を占めるが、偶々生前にそれ以降マーラーが指揮する機会がなかったというだけで、答は誰にもつかめない。何より最後の指揮直後のメンゲルベルク宛ての手紙を見る限りにおいて、まだまだ修正の筆を入れようとする彼の姿が刻まれるのだから・・・。

ご承知のとおり、あなたのところに行くと単に個人的のみならず芸術上からも大いに自分が高められるのを感じておりますが、申しましたとおり私の「第6」は今年のところは私なしで上演していただくのが至当かと存じます。カウベルはあなたのところまでお送りいたします。なお、あなたがお持ちの総譜(大判)をお送りくださいますようお願いいたします。最終楽章にはあなたのためにはなはだ重要な修正を書き込みたいからです。
(1907年1月17日付、ウィレム・メンゲルベルク宛)
ヘルタ・ブラウコップフ編/須永恒雄訳「マーラー書簡集」(法政大学出版局)P332-333

当時のマーラーの充実ぶりと、自作への自信のほど、そして(作品をより良くしようとする)執拗な改作魂の粋が手紙から窺える。
ただし、こういうことは実はとるに足らない些細な問題だ。二度と同じものを再現することのできない、形のない音楽芸術というもの、どのような解釈があっても良いというもの。再生された音楽がエネルギッシュで慈愛に満ち、集中力をもって聴く者を癒してくれるならば。

ところで、アバドがベルリン・フィルと録音したマーラーはいずれもが見通しの良い名演だ。
中でも、交響曲第6番の研ぎ澄まされた精緻な響きと、その上明朗で柔和な音楽に僕は飛びきりの感銘を受ける。
ベルリン・フィルのソロ・チェリストであるゲオルク・ファウストはかく語る。

作曲家あるいは作品に非常に忠実な音楽家でありながら、表面的な完璧さには陥らず、楽器と一緒に登場する人間を常に見ている指揮者です。(・・・)カラヤンは最後の数年、非常に集中していたので、かえって演奏の妨げになるような圧迫感を与えました。しかしクラウディオ・アバドの場合、いつも信じられないくらい平静で、くつろいだ感じなのに、最高に集中し、鋭敏な耳を保っているのです。そのような耳によって音楽が最高のレヴェルに達し、そこからまた集中力が生れてくるのだと思います。
ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」(春秋社)P355

「登場する人間を常に見ている」という点が肝だ。

・マーラー:交響曲第6番イ短調「悲劇的」
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(2004.6Live)

この頃のアバドは指揮者としての頂点に上り詰め、大病を得るも奇蹟的に回復し、いよいよ悟りの境地に入っていた時期で、マーラーのある意味複雑怪奇な私小説的交響曲が、極めて純粋な絶対音楽として昇華されているところが驚異的。
ちなみに、アバドは中間楽章の順序を「アンダンテ→スケルツォ」という順序で演奏している。刷り込みもあろうが、個人的には「スケルツォ→アンダンテ」を好む。

 

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2 COMMENTS

雅之

>マーラー自身による第6番の最後の指揮となるウィーン初演(1907年1月4日)は、予告が「アンダンテ→スケルツォ」であったにもかかわらず、実際には「スケルツォ→アンダンテ」で披露されたことを根拠に、それがマーラー自身の最終結論だとする意見が大勢を占める

その情報、もう相当古いですね(笑)、私も悔しいですが・・・。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC6%E7%95%AA_(%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC)#.E4.B8.AD.E9.96.93.E6.A5.BD.E7.AB.A0.E3.81.AE.E9.85.8D.E7.BD.AE

>刷り込みもあろうが、個人的には「スケルツォ→アンダンテ」を好む。

には、まったく同感です。アバド指揮では、個人的な思い出がありまして、シカゴSOとの旧録音(1979)のほうに圧倒的な愛着があります(当然そっちは「スケルツォ→アンダンテ」)。もう、思い出の前には、演奏の良し悪しや優劣や学説の正しさなんて、一切関係ないですね(笑)。

歴史考証学に、「一秒経ったら、何ひとつ証明することは不可能」という論があります。

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岡本 浩和

>雅之様

最新の情報をありがとうございます。(苦笑)
マーラーについては長いこと情報が止まったままでして・・・。
きちんとアップデートしないといけませんね。
とはいえ、マーラー自身が明言しなかった以上、楽章の順序はどっちでもありなんではないでしょうか?
学者の考証などというのも100%当てにはなりませんし・・・。

>歴史考証学に、「一秒経ったら、何ひとつ証明することは不可能」という論があります。

これは良い言葉だ!!

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