カヤヌス指揮ロンドン響のシベリウス第3番&第5番(1930.6録音)ほかを聴いて思ふ

1904年、シベリウスは家族とともにアイノラに引っ越すことで、ヘルシンキの生活のさまざまな煩わしさから逃れようとした。この地で交響曲第3番にとりかかったが、この作品そのものが一種の音楽上の逃避だった。
アレックス・ロス著/柿沼敏江訳「20世紀を語る音楽1」(みすず書房)P174

古い録音に刻まれる「内省」。ここには、大自然の神秘というよりミクロコスモスの、内なる魂の孤独を癒さんと秘かに闘争する作曲家の真意が感じとれるのである。「逃走」ではなく「闘争」。
第1楽章アレグロ・モデラート、最初の主題から何と親しみやすいことか。指揮者が心から音楽に集中し、感応していることが手に取るようにわかる。コーダの大らかさが素晴らしい。続く第2楽章アンダンテ・コン・モート,クワジ・アレグレットは実に深みのある表現。久しぶりに触れた陽の光に、束の間の癒しを謳歌する、そんな優しさのこもる美しい音楽をカヤヌスは何気なく、しかし全力で表すのだ。

まるで幽体離脱して、もう一人の自分が自分を見ているような錯覚。
交響曲第3番を聴くたびに、シベリウスが世界を真反対から見ていたのではなかったかと考えさせられる。特に、凡人では決して手の届かない、音楽の完全なる一体を体現する終楽章モデラート―アレグロ(マ・ノン・タント)の見事さ。何という創発!!

シベリウスが交響曲の本質についてグスタフ・マーラーと討論を行なったのは、この簡潔で捉えどころのない作品を作曲したすぐあとのことだった。マーラーが1907年、いくつかのコンサートを指揮しにヘルシンキを訪れると、シベリウスは「形式の簡潔さ」と交響的な主題をつなぐ「深い論理」という彼の最近の考え方を披露した。するとマーラーは答えた。「いや違う。交響曲は世界のようでなくてはならない。すべてを包み込まなくてはならないのだ」。
~同上書P174

拡大路線であろうと縮小路線であろうと、包み込むか否かは大きさよりも深さで決まるものだと僕は思う。100余年を経た今、2つの事象を客観視すると、マーラーの音楽もシベリウスの音楽も方向性が異なるだけで、いずれも世界を包み込むだけのエネルギーに満ちる(好き嫌いは別にして)。ちなみに同じ頃、マーラーは最愛の娘マリア・アンナを猩紅熱で亡くしている。

シベリウス:
・交響曲第3番ハ長調作品52(1930.6.21&22録音)
・交響曲第5番変ホ長調作品82(1930.6.22&23録音)
ロベルト・カヤヌス指揮ロンドン交響楽団
・カレリア組曲作品11(抜粋)
ロベルト・カヤヌス指揮ロイヤル・フィルハーモニック・ソサエティ管弦楽団(1930.5.28録音)
・フィンランド狙撃兵行進曲作品91a(管弦楽版)
ロベルト・カヤヌス指揮ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団(1928.5.30録音)
・アンダンテ・フェスティーヴォ(1924)
ジャン・シベリウス指揮フィンランド放送管弦楽団(1939.1.1録音)

名作交響曲第5番は、比較的速めのテンポで颯爽と紡がれる第2楽章アンダンテ・モッソ,クワジ・アレグレットが静けさに満ち、素晴らしい。
そして、一層美しいのが壮大なる「白鳥讃歌」終楽章アレグロ・モルト。

これは、同じ変ホ長調によるベートーヴェンの《英雄》と同種の「男性的」なヒロイズムではない。ヘポコフスキが示唆しているように、シベリウスのその後の音楽は、父性的な論理―交響的な形式のなかで胚胎する天与の主題—よりも母性的な論理を暗示している。不協和音をもぎ取ることによってのみ、音楽はその終わりなく波動する動作から自由になって、最後のカデンツへと突き進む。
~同上書P178

「母性的な論理」とは、アレックス・ロスは実に的を衝く。
コーダに向けて突進するうねりは、確かにすべてを包み込む弧を描く。とても90年近く前の録音とは思えぬ「新鮮さ」。「カレリア組曲」然り、「フィンランド狙撃兵行進曲」然り、カヤヌスの作る音楽は生き生きとし、喜びに溢れる。

涙なくして聴けぬのが、自作自演の「アンダンテ・フェスティーヴォ」!!
この美しくも荘厳な名曲が、老巨匠によって静かに、想いを込めて綴られる様を思い浮かべるだけで心が動く。白眉は、やや音量を落として、時間の終りを凝視するように語られる後半部だろうか。

 

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