高橋悠治のバッハ「ゴルトベルク変奏曲」(2004.7録音)を聴いて思ふ

bach_goldberg_yuji_takahashi無限の可能性を秘めるのが芸術だ。
一方で、その可能性を如実に閉じ込めたのも芸術。規範は必要だけれど、それによって成長の種すら刈り取ってしまうことがあることを知るべし。
高橋悠治の新しい方の「ゴルトベルク変奏曲」は、一聴とても風変わりだ。初めてアルバムを聴いたときも、あるいはリリース当時に行われた演奏会を聴いても、違和感しか覚えなかったくらい。

10余年を経てあらためて聴き直して思ったこと。
音楽とはかくあるべしだということ。どの瞬間も実に生き生きとし、演奏者が譜面をもとに自由自在に自伝を語るかの如く。時間と空間の芸術が今ここで生れ出ずるときをいかに捉えなければならぬか。バッハが目指したこともそこにあった。

ピアニストは語る。

もともとは鍵盤演奏の教育のために出版された音楽をバロックの語源でもあるゆがんだ真珠のばらばらな集まりとみなして、はじめて触れた音のようにして未知の音楽をさぐるのが、毎回の演奏であり、その鏡から乱反射する世界を発見するのが、音楽を聴くことの意味でもあるだろう。
(2004.10.4高橋悠治)
AVCL-25026ライナーノーツ

伸びたり縮んだり、極端なテンポ・ルバート。フレージングやダイナミクスも独特。しかしふとしたときに、彼がチェンバロの響きを意識しているだろうことを思う。何やかんや言って作曲者の深層を思うのだ。そして、まさに本人が言うように、常にはじめて触れる音楽であることを体現するかのような新鮮さを持つのである。

J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲BWV988
高橋悠治(ピアノ)(2004.7.6-8録音)

第18変奏の、スタッカート気味に一音一音を大事に閃く音楽はグレン・グールドのそれとも明らかに異なり、ましてやタチアナ・ニコラーエワやアンジェラ・ヒューイットのそれとも趣を異にし、高橋悠治独自の精神性を示す。
あるいは第25変奏の短調の調べはあまりにそっけなく、音はぶつ切れで、あっという間に過ぎてゆく。色気も何もない音楽だけれど、不思議に身に染みる。
素晴らしいのは第26変奏以降。何とも地に足のついた表現。続く第27変奏は、慌てず急がず、ただひたすら音楽をすることの喜びに満ちる。
第28変奏ではいよいよ高次の存在を見極め、第29変奏で一気にそれをつかみとり、さらに第30変奏でようやく完成、ひとつになる様を描き出す。何という優しさ。崇高さ。

直後に聴いた実演には正直閉口した。譜面を見ながら、各変奏毎に極端な休止を挟む方法。常に音楽の流れが堰き止められるそのやり方に反発を覚えたせいもあり、この録音を認めることが僕はできなかった。

紙の上の作曲術の規範にすぎなかった「ゴルトベルク変奏曲」は、20世紀後半になって、コンサートレパートリーになった。その流れは北アメリカからヨーロッパと日本にひろがった。新自由主義市場経済の流れと同時なのは偶然だろうか。
~同上ライナーノーツ

グレン・グールドから始まった音楽には間違いなく挑戦がある。
42分調の奇跡。少なくとも1970年代の高橋悠治自身の最初の「ゴルトベルク変奏曲」を顧みても、まったく異なる音楽がそこにあって面白い。

 

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3 COMMENTS

雅之

>無限の可能性を秘めるのが芸術だ。
一方で、その可能性を如実に閉じ込めたのも芸術。

そうですね。結局人間が奏でるのも自然の営みの一部なので、
ピーカンのバッハもあれば、曇天や荒天のバッハ、
深深と降る雪のようなバッハにも存在意義がありますよね。
演奏の風量、風向も毎日刻々と変化します。

でも、全部「天候」の範疇なのも確かです。

他方では、聴く側の心の中の天気も日々違います(笑)。
だから、結局、音楽に「絶対」なんて無いんですよね。

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岡本 浩和

>雅之様
ご無沙汰してます。
さすがは雅之さん!良いこと仰る!!
世界も自分も無常であることを痛感します。
だからこそ、人間世界に「絶対」はありませんね。
ありがとうございます。

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