セーゲルスタムのシベリウス第7交響曲

ベルグルンドのシベリウスに触発されて、ムラヴィンスキーのシベリウスを聴いてみた。僕が初めて購入したムラヴィンスキーのアナログ・レコードはどういうわけかシベリウスの第7交響曲とバルトークの弦チェレというカップリングだった。多分バルトーク目当てで買ったと思うが、いつの間にかシベリウスに惹かれていた。繰り返し聴いた。よって、この曲においての刷り込みは僕の場合ムラヴィンスキーのあの研ぎ澄まされた解釈にあると信じていた。

今日久しぶりに聴いて感じたことを率直に書く。何てうるさいのだろう・・・。特に金管群の音が我慢ならないほどバランス悪く突出して響く様に悪寒がするほど(笑)。それほど恐怖を煽る必要のある音楽なのか?いや、これは何かの間違いでは・・・。おそらくメロディア独特の喇叭群を強調する録音方法に問題があること、そしてどれだけリマスタリングを施されても所詮は原盤が1965年のソビエト連邦の技術による録音だから限界があるだろうとことなど考え、もう1枚Altusからリリースされた1977年の上野での実況録音盤を取り出してみた。もちろんこちらも正規の録音でないゆえハンデは大いにあるのだが、少なくともムラヴィンスキーの解釈くらいは明確にわかるだろうという意図をもって。
結果、やっぱり極端に金管が強調された、不自然なバランスのシベリウスが鳴り響いていた。なるほど、録音のせいというより指揮者の解釈自体がそういうことなのかも。昔は気にならなかったのだけれど(と言いながらもし当時上野の会場で「聴く耳を持った上で」聴いていたら卒倒していたんだろうと思う。あくまで録音での感想に過ぎないので幾分かは差し引いて考えないといけない)。

あの天才ムラヴィンスキーをして特に金管が下品に聴こえてしまうのはどういうことか??シベリウスの交響曲第7番という真に透明な音楽には、たとえ超優秀といえどもロシアのオーケストラの金管群の馬力は相応でないのかも。冒頭から凝縮された響きが、時間を経るにつれ「一」に収斂してゆく様、二元的思考が一元的に変貌してゆく様が見事に音化されたこの音楽は、すべての楽器がある意味均等に響き、そこから聴く者に「調和」と「安寧」を体感させるものであったほしい。もちろんこれは僕の独断であり偏見であるのでご批判を受けることもあろう。それでも、少なくとも2013年の現在においてシベリウスのこの音楽に僕の感覚はそういうものを求めるのである。

耳直しにセーゲルスタムを聴いた。2日連続でシベリウスの第7交響曲。そんな「つもり」ではなかったのだけれど、つい懐かしいムラヴィンスキー盤のことを思い出して、耳にしたのが運の尽き(笑)。セーゲルスタムの解釈に「自然」と「調和」を見出した。

シベリウス:
・交響曲第1番ホ短調作品39
・交響曲第7番ハ長調作品105
レイフ・セーゲルスタム指揮ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団(2002.5録音)

この演奏は実に素晴らしい。ことによるとベルグルンド以上かも。
それはヘルシンキ・フィルの自国の作曲家への大いなる憧憬と愛情によるものかもしれない。人間が一切関知せず、ここにはただシベリウスの、それも作曲者本人から独立した「音楽」のみが鳴る。そしてこれを聴く者の脳裏に映るのは「ひとつになった」地球であり、宇宙だ。
何より例のトロンボーンの主題がこれほどまでに他の楽器と溶け合っている様が美しい。この音楽に迫力など無用。ただただ「真空」が表現されるべき。

ところで、もう1枚カラヤン&ベルリン・フィル盤という最右翼の音盤がある。こちらは「タピオラ」まで含まれているので、じっくり聴いてみて明日にでもまた書いてみようか・・・(またか!)。


5 COMMENTS

岡本 浩和

>ふみ君
そうね。とにかく実演でも何でもシベリウスをたくさん聴いてみようとますます思います。
その意味ではインキネン体験も良かったでしょ?

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ふみ

そうですね。改めて曲の特性や聴くポイントがやはりよく分かります。それに併せて、自身の許容範囲の狭さにも気付きました(笑)
やっぱり後期交響曲は拘りが強くなってしまいますね。

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