エンジニアによってコントロールされた(電気的に処理された)記録をもってその是非を語るのは実にナンセンス。実演に触れたことのない指揮者の音楽を音盤だけで云々するのは、本当は無理なんだ。
それでも人々は追う。感動を求めて。
死を目前にしてヴィルヘルム・フルトヴェングラーが最後に至った境地。
もちろん本人は3ヶ月後に命を落とすことになるとは思ってもいなかっただろう。
20余年前、Tahraレーベルからリリースされた「ルツェルンの第9」(Furt1003)を聴いたとき、僕は心底感動した。名盤バイロイトの第9を凌ぐ精神性。音楽は相変わらず主観的ながら踏み外しのない崇高美を誇る。何より十分に鑑賞に耐え得る最良の音質に度肝を抜かれた。静けさの中にあるベートーヴェンの闘争と祈りと。殊に第3楽章アダージョ・モルト・エ・カンタービレはおそらくそれ以前も、またそれ以後の誰も成し遂げられなかった特別な神宿る時間。僕のその印象は現在も変わらない。
興味深いのはそれから数年経った2000年にリマスターされ、再発された盤(Furt1056)がまったく異なる印象を僕に与えたこと。ちなみに、テクニカル・ノートにはリマスターの理由が次のように記されている。
1)疑似ステレオ(ブライトクランク)効果を生み出すべく人工的な残響が付加されていたこと。
2)ダイナミック・リミッターが使用された結果、音が平板化したこと(圧縮はこの印象を強調しただけに止まった)。
3)結局、サウンド・エンジニアが使用した素材が、私たちが望むようなマスターテープの復元ができなかったこと。
今回の作業は、ラジオ局蔵出しのオリジナル・アナログ・テープからの24ビット・リマスターで、基本的にダイナミクスを尊重し、ノイズやヒスを排除、その結果、オーケストラの音色はより明瞭になり、音質は一層ナチュラルになった。
たとえ人工的であろうと、僕の好みは初出のブライトクランク盤(音の分離がとにかく良い)。リマスター盤は、音がナチュラルになったというものの、音楽から拡がりが失せ、スケールが小さくなったように(僕には)感じられるから。
果たしてフルトヴェングラーの生の音に近いのはどちらなのか?もはやそれは誰にもわからない。
・ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」
エリーザベト・シュヴァルツコップ(ソプラノ)
エルザ・カヴェルティ(コントラルト)
エルンスト・ヘフリガー(テノール)
オットー・エーデルマン(バス)
ルツェルン芸術週間合唱団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮フィルハーモニア管弦楽団(1954.8.22Live)(FURT1003&1056)
終楽章の熱狂は相変わらずフルトヴェングラーの真骨頂。
それぞれの独唱も合唱も、もちろんオーケストラも完璧なアンサンブルで指揮者の精神に応える。また、”vor Gott(神の前に)”でのいつものように果てることを知らないフェルマータ!(時間的にはいつもより短いそうだが、体感の印象は結構長い)
そして、もはやフルトヴェングラーにしか成し遂げられないであろう最後のプレスティッシモでの圧倒的アッチェレランド!!
互いに抱き合え、諸人よ!
全世界の接吻を受けよ!
兄弟よ、星の上の世界には
愛する父がおわします。
(訳:渡辺護)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー62回目の命日に。
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古いマスターテープの劣化問題については、本当に深刻だと思っています。それに、特に昨今のようにレコード会社の合従連衡が頻繁になると、管理責任の曖昧さが致命傷となり、温度や湿度管理の適切な保存をしなくなったり、最悪の場合、紛失の危険性だって大いにあり得ます。
それと、録音がデジタルになりCDが普及してからも、少なくとも1990年代後半~2001年前半くらいまでは、U規格カセットテープ
https://ja.wikipedia.org/wiki/U%E8%A6%8F%E6%A0%BC#PCM.E9.9F.B3.E5.A3.B0.E8.A8.98.E9.8C.B2.E7.94.A8.E9.80.94
がマスターとして使用されていました。その後の光ディスクでのマスターも含め、ハード・ソフトの両面で、長期保存に関する信頼性への疑問は多々ありそうです。
案外、世の中いろんな意味で、「芸術は長く人生は短し」よりも、「人生は長く芸術は短し」のほうが多いのかもしれませんね。需要と経済性だけに振り回されると特に・・・。
>雅之様
本当に深刻ですよね。
>需要と経済性だけに振り回されると特に・・・。
まったくもって同感。売れることが前提になるとどうにもなりません。
それにしてもU規格のカセットテープ懐かしい!