ロストロポーヴィチ&リヒテルのベートーヴェンハ長調ソナタ作品102-1を聴いて思ふ

beethoven_rostropovich_richter293言葉以上に音が大切であることをあらためて思い知った。
いや、言語は互いの理解を深めるために重要ではある。しかし、それ以上に音圧であったり、調性(つまり周波数)であったり、音そのものに込められる感情や想いを聴き手が的確に捉えることが関係構築の上でいかに大切かということである。

音楽も同様。いわゆる名演と駄演の差が何なのかが少しわかった。それはひょっとすると演奏者側の問題ではなく、むしろ聴き手側の姿勢の問題ではないのか。
ちなみに、ここで言う聴き手というのは、聴衆のことを指し、そして演奏者のことをも差す。例えば、指揮者もオーケストラ・メンバーも、演奏する側であると同時に各々は音を聴く側でもある。奏者が指揮者に対しての絶対的尊敬を持ち、指揮者が楽団に対して謙虚かつ大いなる信頼を置く時、自ずと名演奏が生れるということだ。あるいはまた、聴衆が演奏者に完全なる忠誠を抱き、演奏者が聴衆を心底から想う時も然り。

音楽においては、譜面に正確であること、縦の線が揃うこと、横の流れもスムーズであることなどはもちろん重要である。とはいえ、機械的ではだめ。何より、互いの「聴き手」としての他の奏者への尊崇する心こそが類い稀なる音楽を創造するのである。
確かに、フルトヴェングラーの音楽の、古い音の向うから湧き出づる感動の根源には、演奏者、聴衆を問わず、その場に居合わせるひとりひとりの、他のひとりひとりへの感謝の念、尊敬の想いが間違いなく存在する。

ロストロポーヴィチとリヒテルのデュオによるベートーヴェンを聴いた。
楽聖の作品の中では比較的地味な音楽だが、旧ソビエトを代表する二人のヴィルトゥオーソの二重奏だけあり、一筋縄ではいかない、あまりの神々しい、光り輝くベートーヴェンがある。

ベートーヴェン:
・チェロ・ソナタ第1番ヘ長調作品5-1
・チェロ・ソナタ第4番ハ長調作品102-1
・チェロ・ソナタ第5番ニ長調作品102-2
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(チェロ)
スヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ)(1963.3.25-28録音)

ハ長調作品102-1がことのほか素晴らしい。これほど静謐でありながら、勇猛果敢な音楽はない。同時に、これほど怒り狂う音楽でありながら優美さを醸す作品もない。型破りの自由さ!一般的型式を超え、2つの楽章(楽想?)に想いを託したベートーヴェンの天才。それこそ音の流れや高低や呼吸や、そういうものがひとつになり、この頃(1815年)彼は既に悟りを得ていたのだろうことが手にとるようにわかる。

何よりその音楽を見事に再現するロストロポーヴィチとリヒテルの技量。
チェロとピアノが、どちらも優勢劣勢とはならず、常に伴走し、ゼロ・ポイントで渾然一体となる妙。
ぴたりと一致する呼吸。そして、時に丁々発止とやり合い、音楽は高揚し、鎮まる。
アダージョにおけるリヒテルとロストロポーヴィチの見事な対話がこの演奏の素晴らしさを物語る。
チェリストもピアニストも相手の音を大切に聴いている様が見えるのだ。

 

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