いつもなら冷静で客観的な(学者肌の)グールドが不思議に饒舌に、そして天衣無縫、情熱的になるのはどういうことなのだろう?
静かな情念。だった一つの楽章に秘められた底なしの生命力。これほどにエロスが内燃する音楽が他にあるのだろうか?アルバン・ベルクの作品1。
イタリアの作曲家ルイジ・ダラピッコラは、ある対話の中でこう語っている。
「もし『ヴィーン楽派』の音楽が世界中で成功したといえるなら、それは何よりアルバン・ベルクの功績だと私は確信しています。彼は最も偉大ではないにしろ、誰よりも『人間的』でした」
アドルノもまた、こう書いた。
「私たちの時代のどの音楽も、ベルクの音楽ほどに人間的ではなく、人はそのことに愕然とする」
~田代櫂著「アルバン・ベルク―地獄のアリア」(春秋社)P9
両巨頭のベルク評は実に的を射る。「人間的」というキーワードが彼の音楽を一層近しいものにしてくれる。その意味で、グレン・グールドは他のどんな音楽よりもベルクのこの作品を「人間的に」奏した。
これは挫折と不信を語る言語であり、音楽によって世界苦を表わす言語であり、生をうけた半音階主義に欺し討ちの目にあった、調性主義最後のふんばりである。この作品はベルクに、うっとりする緊張感、悲愴な決意、臆すことのない自己暴露を許した。
「ベルク、シェーンベルク、クシェネクのピアノ音楽」
~ティム・ペイジ編/野水瑞穂訳「グレン・グールド著作集1―バッハからブーレーズへ」P293
確かにあの色気は苦悩の裏返しのようだ。ギリギリ調性の中にある音楽に楽観はない。「人間的」とはすなわち「悲観」を指すのだろうか?
・ベルク:ピアノ・ソナタ作品1(1958.7.1録音)
・シェーンベルク:3つのピアノ小品作品11(1958.6.30&7.1録音)
・クシェネク:ピアノ・ソナタ第3番作品92-4(1958.7.1録音)
グレン・グールド(ピアノ)
そして、グールドが、ブラームスの「間奏曲」の最高作品を継ぐ傑作だと認めるシェーンベルクの作品11の整頓され落ち着いた響き。ベルクの場合とは異なり、シェーンベルクにおいてはグールドのピアノがより機械的になる(と僕には感じられる)のが興味深い。特に、第2曲の深沈たる音調と物憂げな表情が心に染みる。
あるいは、グールドが当代のピアノ曲で最も誇り得るひとつだと推すクシェネクのソナタ第3番の動的で開放的な音楽。相変わらず鼻歌が絶えないグールドの、興に乗り、空いた左手で指揮をする姿が目に浮かぶよう。
ある悲しみの前、
ぼくがいま抱いてる人がそのときの女、美肉にして花、
いうならば鎌の刃をもつ茨から、水に撃たれたもの、
地獄の風と海、
接合する茎、その女は、塔をあくせく登り、
乙女と男の姿を立ち上がらせた、いうならば
マストを立てたヴィーナスで、漕ぎ手の水盤から
太陽に船出したのだ―
「ある悲しみの前」
~松田幸雄訳「ディラン・トマス全詩集」(青土社)P116
ディラン・トマスは「わが肉体には、獣と天使と狂人が住まう」と言った。
おそらく、ベルクのうちにも、またシェーンベルクの中にも、そしてクシェネクにもそれはあっただろう。もちろんグールドにも。
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音楽の何をもって「人間的」と定義するかは難しい問題ですね。どんな音楽も人間が創っているのですから。
実際は音楽そのものではなく、それを「人間的」と能動的に捉えることができる私たちの感受性が「人間的」なのでしょうね。
>雅之様
すべては主観で語られますからね。
世界に本当の意味での客観はないのだと痛感します。
>それを「人間的」と能動的に捉えることができる私たちの感受性が「人間的」なのでしょうね
同感です。