さすがに音楽は情緒に溢れ、躍動する。そして、静謐な場面における祈りの妙。
冷静かつ直線的な外見を示しながら、内面は実に揺れ、唸りをあげる。
様々な矛盾を醸すような、戦時中のナチス占領下のウィーンでの演奏。このとき、指揮者は何を想うのか?
自由で正統な、理想的造形。
しかし、音圧は重く、熱量も高い。
イタイ・タルガムは「偉大な指揮者に学ぶリーダーシップ」の中で、リヒャルト・シュトラウスの指揮ぶりを評して、楽譜に忠実かつ自然だというが、少なくとも自作に限っては僕にはそうとは思えない。
つまり、自然に素晴らしい音楽が発生するようにすることが大切だという考え方です。それを指揮者が邪魔してはならない。しかし、どうやってそれをするのでしょうか? 彼が楽譜のページをめくっていたことにお気づきでしょうか?
彼は年を取りすぎて彼が書いた音楽を忘れてしまったのでしょうか? または、「みんな、本の通りに演奏するんだ。私のやり方でも、みんなのやり方でもない。書かれた通りに演奏するんだ。音楽に対する解釈は必要ない」というメッセージを送っているのでしょうか。解釈は演奏者によって違うので、彼は演奏者それぞれが違う解釈を持つことを望まなかった。
(イタイ・タルガム)
彼が演奏者の独断、というか解釈を許さなかったことは確かだろう。
しかしながら、ウィーン・フィルハーモニーを指揮しての「家庭交響曲」を聴く限りにおいて、オーケストラのメンバーは間違いなく自発的に音楽を創造しようという意志を持つ。指揮者の意図を的確に汲み取り、その上で自由に振舞うのである。音楽は極めて即興的であり、インスピレーションに溢れる。その意味では、シュトラウスは独裁者ではなく、どちらかというと民主的でなかったか。
リヒャルト・シュトラウス:自作自演集Ⅰ
・家庭交響曲作品53(1943録音)
・交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」作品28(1944録音)
・交響詩「ドン・ファン」作品20(1944録音)
リヒャルト・シュトラウス指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
「家庭交響曲」は、初演当時賛否両論だった。
父フランツは分厚いオーケストレーションを批判し、「こんな騒音は家庭では許されない」と書いた。ロマン・ロランは05年のアルザス音楽祭で「家庭交響曲」を聴き、ヴァーグナー以後の交響曲における絶頂と評した。だが「夜」の部分には厳粛さと夢と感動的な何か、そして非常に悪趣味なものがある、と日記に記している。
~田代櫂著「リヒャルト・シュトラウス―鳴り響く落日」(春秋社)P154
ロランが言うように、その標題性を無視し、この作品を絶対音楽として僕たちが認知したとき、旋律の素晴らしさや音調の美しさに気がつくことだろう。
「思い込みを捨てよ」とシュトラウスが言うようだ。それこそ彼は聴くものに「音楽に対する解釈」を要求しない。
そして、劇的な「ティル・オイレンシュピーゲル」は、フルトヴェングラーの演奏以上に壮絶。ここにあるのは、シュトラウスの怒りの投影か。
さらに、宇宙的拡がりを見せる「ドン・ファン」の哲学的色香。自然に任せた結果、音楽は一層妖艶になる。
スコア冒頭に掲載された、ベートーヴェンを崇拝したニコラウス・レーナウの詩が哀しい。
私を駆り立てた、美しい風も、
今は静まり、静寂だけが残った。
あらゆる願いも、希望も、死に絶えたかに見える。
あるいは、唾棄すべき天からの閃光が、
私の愛の力を打ち砕いたのか、
突如、世界は荒涼として、闇に包まれた。
あるいはまた―薪は尽き果て、
炉の上は冷たく暗くなろう。
~同上書P86
「ドン・ファン」についても、こういう詩の存在を無視して、絶対音楽として聴いてみるべし。
大いなる発見があろう。
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>絶対音楽として聴いてみるべし。
逆に絶対音楽が標題音楽に聞こえてしまって困ることもよく経験しますよね。
シューベルトの交響曲「ザ・グレート」冒頭を聴くと、いつも頭の中が「紺碧の空」になって困ります(苦笑)。
>雅之様
なるほど!
確かにそう言われてみると「紺碧の空」ですね。(笑)
今後はつい過ってしまうかもしれません。
世界はやっぱり「認識」がすべてなんだとあらためて思いました。