グールドのバッハ パルティータ第3番&第4番ほか(1962&63録音)を聴いて思ふ

出色のバッハ。グレン・グールドの演奏する「パルティータ」は、年を追うごとに一層の光彩を放つ。間違いなく彼は、バッハの再生に命を賭けていたのだと思う。
ポリフォニーの極致、それはすなわち空間の無限を示す。そして一粒一粒の音に宿る躍動感。時間の精緻なプログラミングは人間業とは思えぬもの。恐るべき技術、また類い稀なる感性・・・。

命を賭して音楽を創造したグールドは結果的に寿命を短くした。
いわばバッハへの殉教。

ところで、グールドが亡くなった時、その追悼言として柴田南雄さんが興味深いことを書かれていた。

グールドのいかにも早すぎた死の原因は心臓発作だったらしいが、デイヴィッド・マンロウのばあいと同じく、積年の過労が早世の一つの原因となったのではあるまいか。レコード録音のセッションを連日の強行スケジュールで行うことがいかに演奏家にとって疲労を蓄積させるか。聴衆を前にしての演奏のほうが、むしろ発散があり、演奏旅行はたとえ強行スケジュールでも息ぬきが必ず伴う。録音スタジオでの張りつめた緊張の連続、その揚句、発散の機会がない、というのは精神衛生に良い筈はない。虚弱な体にはもっと悪い影響を与えるだろう。とにかく、彼が不自然な形でのみ、音楽表現の行為と関わっていたことは争えない事実だと思う。
~「レコード芸術」1982年12月号(音楽之友社)P168

人は他人との呼吸の交歓により、互いに生かし合っているのだと思う。
確かにより納得のゆく演奏を残すには、スタジオでの孤独な作業が向いていたのだろう。なるほど、バッハは孤高だ。グールドの選択した方法が、ある意味バッハ解釈においては正しかったとも言えまいか。

J.S.バッハ:
・パルティータ第4番ニ長調BWV828(1962.12.11&12, 1963.3.19&20録音)
・パルティータ第3番イ短調BWV827(1962.10.18&19録音)
・トッカータ第7番ホ短調BWV914(1963.4.8録音)
グレン・グールド(ピアノ)

例えば、ニ長調のパルティータの第4曲「アリア」の快活で、竹を割ったように真っ直ぐな表現の内にある愉悦は絶品。続く第5曲サラバンドの癒しに満ちた哀感もこの人でなければできない芸。そして、第7曲ジーグの爆発的解放!
特筆すべきは、神秘の、冷たいながら芳醇なオーラを発する「トッカータ」!その沈思黙考の様。

ちなみに、当時、林光さんが粟津則雄さんと黒田恭一さんとの対談でこんなことを言っておられた。

もちろんあれこれの曲をちょっと弾かしておきたかったとか、考えれば出てくるかもしれないけれども、そのことによって実に惜しいとかというふうにはならないわけでしょう。それはやはりグールドが弾くことがおもしろいというか、ほかの演奏家とそこが違うんじゃないかと思うな。つまり、あいつにあれを一遍振らせておきたかったというんじゃなくて、何をやっても、グールドが選んで弾いたものであれば、そこに一つのおもしろさが出てくるだろうけれども、だからといって、ある曲がグールドによって何かされなかったから惜しいというふうにはならないんじゃないか。
~同上誌P175

納得。グールドは作品を支配できたのだと思う。
どんな解釈でも、聴き手に相応の納得感を与える稀な音楽家。
エキセントリックなモーツァルトのソナタでさえ、(どんな理由であれ)グールドが自ら選んで演奏したからこそ「おもしろい」のである。

いつ何時聴いても彼の音楽は新しい。

 

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4 COMMENTS

雅之

>発散の機会がない、というのは精神衛生に良い筈はない。虚弱な体にはもっと悪い影響を与えるだろう。

今日は彼岸の入り。

「毎年よ、彼岸の入りに寒いのは」 正岡子規

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