イストミン、シュナイダー&カザルスのベートーヴェン「大公」トリオ(1951Live)を聴いて思ふ

beethoven_trio_7_casals_istomin_schneider490第3楽章アンダンテ・カンタービレ・マ・ペロ・コン・モートにおけるチェロの人間らしく温かい音色。パブロ・カザルスの音は真に柔らかく優しい。彼は弟子に語る。

音高の調整は意識の問題である。はずれた音を聴くのは、ちょうど日常生活でなにか不都合なことが起こった場合と同じような感じがする。そのような望ましからぬ状態を維持してはならない。音符はそれぞれ、いわば鎖のなかのひとつの輪のようなものである―その物自体が重要であるのと同時に、前後のつながりのうえでも大切である。
デイヴィッド・ブルーム著/為本章子訳「カザルス」(音楽之友社)P111

まさにこの「大公」トリオが示すように、音のつながりが重要なのであり、そのカザルスの思考がイストミンのピアノやシュナイダーのヴァイオリンにまで大いなる影響を与えている。何にせよ音をしっかりとらえろと。
そのカリスマ的エネルギーは桁外れだ。

ところで、国松俊英氏の「宮沢賢治 鳥の世界」には次のような言がある。

賢治がチェロを弾いていたようすを思い浮かべると、そこにひとりの音楽家の姿がだぶってくる。スペイン生まれのチェロ奏者パブロ・カザルスだ。何年か前、テレビでカザルスがバッハの無伴奏組曲を演奏しているのを見ていて、賢治が弾いているようだと思ったことがあった。それから、カザルスについて書かれたものを読み、彼の演奏した曲を聴くうちにますますその思いを強くするようになった。(中略)
カザルスのチェロは、いつも賢治のことを思わせる。
~国松俊英著「宮沢賢治 鳥の世界」(小学館)

実際、賢治のチェロがカザルスのようだったはずはない。東京に行って数日はレッスンを受けたものの、それくらい。独学でやったとしても間もなく病に倒れるのだから弾きこなすことはなかっただろう。

いつの頃か、賢治は、野中の一軒家のあばら屋にひとり籠って、食うや食わずの生活をしながら、毎日チェロを弾いていた。
チェロを弾くと言えば、聞こえはいいが、実はチェロの弦を弓でこすって、ぎいん、ぎいん、とおぼつかない音を出すのが精いっぱいで、それだけでひとり悦に入っていたのである。
横田庄一郎著「チェロと宮沢賢治―ゴーシュ余聞」(音楽之友社)P120-121

中学時代からの友人であった阿部孝の証言である。
しかしながら、法華経に心酔していた賢治の思想の根底に流れる慈しみという観点から言えば、それはカザルスのチェロの根底に流れる愛と相似だったのではないか。あくまでもイメージがイメージと結びついて国松さんに「カザルスのチェロ=宮沢賢治」という想像をいつもさせたのではないかと僕は思うのである。

閑話休題。
カザルス、イストミン、シュナイダーの「大公」トリオ。

・ベートーヴェン:ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための三重奏曲第7番変ロ長調作品97「大公」
ユージン・イストミン(ピアノ)
アレクサンダー・シュナイダー(ヴァイオリン)
パブロ・カザルス(チェロ)(1951Live)

ペルピニャン・フェスティバルでの記録。
第1楽章アレグロ・モデラートの冒頭、イストミンのピアノに続きシュナイダーのヴァイオリンが泣く。それをサポートするカザルスのチェロは母なる大地のよう。何という包容力!音楽が進むにつれ三者の音はますますひとつになり、ベートーヴェンの思想の根底にあった「人類皆兄弟」を体現する(そのことはまた宮沢賢治の思想にもつながるだろう)。
また、第2楽章スケルツォの音をなるべく荒立たせない方法、そして若きイストミンのピアノを前面に出そうするフォローの姿勢にカザルスの謙虚さを思う。やはり母なるチェロ。
なお、終楽章の軽快な愉悦の深層に垣間見える激情は、恋の病の最中にあった楽聖の心を直接に表現するようで素晴らしい。

 

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