バーンスタイン指揮ウィーン・フィルのベートーヴェン交響曲第5&第6番を聴いて思ふ

三島由紀夫が「暁の寺」で、本多繁邦をして唯識論の会得に至らしめたその過程が具に語られるシーンは難解だが、実に興味深い。

「あなたはナーガセーナは何者だと思われるかね」
「尊者よ、身体の内部に存し、風(呼吸)として出入する生命(霊魂)を、私はナーガセーナであると思います」
ここを読んだとき、本多は王の答から、あのピュタゴラスの宇宙呼吸説を思い出さずにはいられなかった。すなわちギリシア語の霊魂はもと息を意味し、人のプシュケーが息ならば、人はいわば空気に支えられているようなものであり、全宇宙もかくのごとく、気息と空気によって抱き保たれている、というのがイオニアの自然哲学の説くところであった。
長老はさらに反問して、法螺貝を吹く者、笛を吹く者、また角笛を吹く者の息が、一旦外へ出て再びかえって来ることはないのに、しかもかれらが死ぬことがないのは何故か、と言うと、王は答えることができない。そこでナーガセーナは、希臘哲学と仏教との根本的な差異を暗示する一語を述べるのである。
「呼吸の中に霊魂があるのではない。出る息入る息は、ただ身体の潜勢力(薀)なのだ」
三島由紀夫著「暁の寺―豊饒の海・第三巻」(新潮文庫)P143

一体霊魂は、真の「私」はどこにあるというのか?

―かくて、何が輪廻転生の主体であり、何が生死に輪廻するのかは明らかになった。それこそ滔々たる「無我の流れ」であるところの阿頼耶識なのであった。
~同上書P156

深層の深層にある「無我の流れ」!

しかも現在の一刹那だけが実有であり、一刹那の実有を保証する最終の根拠が阿頼耶識であるならば、同時に、世界の一切を顕現させている阿頼耶識は、時間の軸と空間の軸の交わる一点に存在するのである。
~同上書P161

すべては「現在の一刹那」、すなわち「いまここ」にのみ存在するのだと三島は悟る。そして、輪廻の主体が阿頼耶識だと説く三島は、生きることに執着せず死すれば生まれ変わりはないと信じていたようだ(しかし、自死ではそれは果たせまい)。

・・・本多はそのとき、すぐ次の頁にある以下のような問答が、たちまち予感される心地がした。
「王問うて曰く、
『尊者よ、何人でも、死後また生れ返りますか』
『ある者は生れ返りますが、ある者は生れ返りませぬ』
『それはどういう人々ですか』
『罪障あるものは生れ返り、罪障なく清浄なるものは生れ返りませぬ』
『尊者は生れ返りなさいますか』
『もし私が死するとき、私の心の中に、生に執着して死すれば、生れ返りましょうが、然らざれば生れ返りませぬ』
『善哉、尊者よ』」
~同上書P144

おそらく、三島は輪廻転生を超える法の存在を知っており、常々それを超えたいと願望していたのだと思う。しかしながら、彼はついに無限の法に出逢うことが叶わなかった。(よって彼は間違いなく転生する)

ベートーヴェン:
・交響曲第5番ハ短調作品67(1977.9Live)
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(1978.11Live)
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

ハイドンが確立した交響曲の形式をさらに革新的に推し進めたベートーヴェンの才能を、第5と第6という双生児交響曲を聴きながら思った。
ここから引くものも足すものもない、凝縮された美の極致であるハ短調交響曲、そして、類い稀な心象描写により、ミクロコスモスとマクロコスモスを統合したヘ長調交響曲がほぼ同時に創出されているという不思議。というより奇蹟。

ここで、僕の内で起こった突飛もない連想と空想。
これらは、インド哲学にはまった覚者ベートーヴェンが「輪廻」の主体を描こうとした2つの交響曲であると。
苦悩の解放を目指すも、結局は輪廻の輪の中から抜け出すことのない罪障あるものを描くハ短調交響曲。また、輪廻の輪を抜ける術を知覚し、終楽章コーダにおいてついにそれを獲得する、清浄なるものが森羅万象とひとつになる様を描くヘ長調交響曲。

バーンスタインの棒は華麗だが、踏み外すことなく、極めてオーソドックスなテンポでベートーヴェンの音楽を美しく奏でる。

すべては夢のまた夢・・・。

 

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3 COMMENTS

雅之

客観的にみて「輪廻転生」を確信し、しかもそれを肯定的に捉えている人は、世界中に何パーセント存在するのでしょうね。きっと少ないでしょうね。

私自身は、自分のDNAを後世に残せたら、「輪廻転生」にこだわる必要はまったくないと思うし、それよりも「パラレルワールド」などのほうが余程科学的理論に基づいていて興味があるのですがね(実際に、岡本様や私は、何兆人も同時に存在していると信じています)。

「●●の科学」とか、かつての「●●真理教」など、科学の重要性を標榜したカルトの教祖は、何でそっちの神秘性を強調しなかったんでしょうね。それがあれば、随分「教え」の説得力を補強できたはずなのでは・・・。

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雅之

人は時間軸ばかりに魂の永続性を夢想するのですが、そういう場合、なぜか空間の無限性に意識がいかないですよね。

「輪廻転生」を信じるなら、何兆人もの岡本様や私が、別な宇宙で何兆通りもの異なった人生を同時に送っていても、少しも不思議ではありません。

宇宙は人間が想像するより、きっと、ずっとずっと複雑怪奇ですよ(笑)。

返信する
岡本 浩和

>雅之様

最初のコメントをいただいてから随分と考えました。
時間の無限性と空間の無限性の両方を対等に意識すべきなんだと思います。
間違いなくパラレル・ワールドはあるでしょう。
また、間違いなく輪廻も存在するでしょう。

おっしゃるように時空の無限と変転を信じる人は少ないのかもしれません。
ただ、感覚的ですが以前よりも確実に増えているのではないでしょうか。

信仰と科学のバランスはとても大事なことだとあらためて思います。

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