デュトワ指揮モントリオール響のドビュッシー「聖セバスチャンの殉教」ほか(1989録音)を聴いて思ふ

子供だと思っていると油断ができない、こいつ俺を羂にかけて「あのこと」をきき出そうとしているにちがいない、それなら何だってもっと子供らしく無邪気に訊けないものだろう、「僕どこから生れたの?僕どうして生まれたの?」と。―彼らは、あらためて、黙ったまま、何のせいかしらずひどく心を傷つけられたしるしの薄ら笑いをじっとりとうかべたまま、私を見やるのが落ちだった。
しかし、それは思いすごしというものである。私は「あのこと」などについて何を訊きたいわけでもなかった。それでなくても大人の心を傷つけることが怖くてならなかった私に、羂をかけたりする策略のうかんでくる筈がなかった。
三島由紀夫著「仮面の告白」(新潮文庫)P6

純情な、それでいて冷静な少年が性に目覚めるその相手が有名な絵画の「聖セバスチャン」であるという内的矛盾。三島の奇癖、エキセントリックな行動の源泉はやはりその倒錯にあったのだろうか。

私は今手にしている画集のたぐいを、今日はじめて見るのだった。吝嗇な父は子供の手がそれに触れて汚すのをいやがって戸棚の奥ふかく隠していたし、(半分は私が名画の裸女に魅せられるのを怖れたからだが、それにしても、何という見当違いだ!)私は私で講談雑誌の口絵に対するほどの期待を、それらに抱いていなかったからのことだった。―私は残り少なの或る頁を左へひらいた。するとその一角から、私のために、そこで私を待ちかまえていたとしか思われない一つの画像が現われた。
それはゼノアのパラッツォ・ロッソに所蔵されているグイド・レーニの「聖セバスチャン」であった。
~同上書P38

息が詰まる、赤裸々なこのシーンのリアルな描写にため息が出る。
「聖セバスチャン」の偶像に恋をした三島の熱い思いと、この後語られる具体的な行為の詳細は・・・。

ドビュッシー:
・海―3つの交響的素描(1989.5録音)
・バレエ音楽「遊戯」(1989.5録音)
・交響的断章「聖セバスチャンの殉教」(1989.10録音)
・牧神の午後への前奏曲(1989.5録音)
ティモシー・ハッチンズ(フルート)
シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団

劇音楽「聖セバスチャンの殉教」第1幕の前奏曲である第1曲「百合の園」の、木管群による優しい歌は少年三島が受けた性的衝撃の前触れ、すなわち殻を被った純粋無垢な信仰心の表象の如し。デュトワ指揮モントリオール響の洗練された音楽は見事の一言。

その絵を見た刹那、私の全存在は、或る異教的な歓喜に押しゆるがされた。私の血液は奔騰し、私の器官は憤怒の色をたたえた。この巨大な・張り裂けるばかりになった私の一部は、今までになく激しく私の行使を待って、私の無知をなじり、憤ろしく息づいていた。私の手はしらずしらず、誰にも教えられぬ動きをはじめた。私の内部から暗い輝かしいものの足早に攻め昇って来る気配が感じられた。と思う間に、それはめくるめく酩酊を伴って迸った。
~同上書P40

第1幕最後にセバスチャンが歓喜の踊りを披露し、高揚を築く場面の音楽が第2曲「法悦の舞曲と第1幕の終曲」。澄んだトランペットの咆哮が、聴く者の性欲を煽る。妖艶な音楽を美しく再生するデュトワの力量。

―やや時すぎて、私は自分がむかっていた机の周囲を、傷ましい思いで見まわした。窓の楓は、明るい反映を、私のインキ壺や、教科書や、字引や、画集の写真版や、ノート・ブックの上にひろげていた。白濁した飛沫が、その教科書の捺金の題字、インキ壺の肩、字引の一角などにあった。それらのあるものはどんよりと物憂げに滴りかかり、あるものは死んだ魚類の目のように鈍く光っていた。・・・幸い画集は、私の咄嗟の手の制止で、汚されることから免れた。
これが私の最初のejaculatioであり、また、最初の不手際な・突発的な「悪習」だった。
~同上書P40-41

何とも後に引く罪悪感。
皇帝からアポロを崇めるよう命を受けたセバスチャンが、それを拒否し、キリストの受難を語り踊るシーンの第3曲「受難」が、三島の「最初のejaculatio」の場面を不思議に彩る。セバスチャンの不幸をかくも暗澹たる音調で歌うオーケストラの巧さ。

そして、終曲「良き羊飼いキリスト」は、第4幕の前奏曲であり、セバスチャンの殉教のシーンをミステリアスに、そして徹底的に繊細に美しく表現する。このあたりはドビュッシーの天才の最たるところで、これほど濃密でありながら汚れのない崇高な音楽はないかも。

セバスチャン―若い近衛兵の長―が示した美は、殺される美ではなかったろうか。羅馬の血潮したたる肉の旨味と骨をゆるがす美酒の味わいに五感を養われた健やかな女たちは、彼自身のまだ知らない凶々しい運命をはやくも覚って、その故に彼を愛したのではなかったろうか。彼の白い肉の内側を、遠からずその肉が引裂かれるとき隙間をねらって迸り出ようとうかがいながら、血潮は常よりも一層猛々しく足早に流れめぐっていた。かかる血潮のはげしい希いを女たちがどうして聴かなかった筈があろう。
~同上書P44-45

ところで、先日訪れた「篠山紀信展 写真力」では、会場に入るなり篠山が撮影した三島由紀夫の、おそらく「聖セバスチャン」をモチーフにしたであろう全身像がいきなり目に飛び込んできた。何という衝撃。

春爛漫。葉桜の季節に聴くクロード・ドビュッシーの音楽の奇蹟。
幻の雲の上で揺られながら聴く者を恍惚とさせるゆらぎこそ美の最高の姿。
デュトワの振る交響的素描「海」のリアルさに怖れを知り、夢見る「牧神」の響きに官能を思う。セルゲイ・ディアギレフの委嘱により創造された「遊戯」も絶品の再生。

 

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7 COMMENTS

雅之

「男色」は日本でも公家社会での藤原頼長らをはじめ、歴史が古いですよね。人類の歴史上、いつから始まっているのでしょうかね。

本文を読み、藤原頼長の男色について触れていた大河ドラマ 「平清盛」のことをふと思い出しました(あれは音楽も吉松さんでした)。

https://www.amazon.co.jp/NHK%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E-%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B-%E5%AE%8C%E5%85%A8%E7%89%88-Blu-ray-BOX-%E7%AC%AC%E5%BC%90%E9%9B%86/dp/B009AR2RNC/ref=sr_1_8?s=dvd&ie=UTF8&qid=1492175722&sr=1-8&keywords=%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B

返信する
雅之

追記 「タルカス」が多用されていましたが、劇とじつによくマッチしていました。

返信する
岡本 浩和

>雅之様

風俗史的な意味で興味深いですね。
意外に昔は、貴族社会では当たり前だったのかもしれません・・・。
「平清盛」も例によって観ておりませんでしたが、吉松さんが音楽を担当されていたのですか!
しかも「タルカス」が多用されていたとなると、それだけでも必見ですね。
ありがとうございます。

返信する
雅之

そうそう、テーマ曲は、舘野泉/井上道義/N響だったんで、オンエア当時はむしろ音楽の方向からあのドラマに惹きこまれたんです(笑)。

https://www.amazon.co.jp/NHK%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%80%8A%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B%E3%80%8B%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF-V/dp/B006482YRY/ref=sr_1_1?s=music&ie=UTF8&qid=1492196868&sr=1-1&keywords=%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B

https://www.youtube.com/watch?v=noGtxq4YlZE

例によって、意識的にブログ本文と全然関係ないコメントにしていますが、デュトワともN響繋がりということで・・・(笑)。

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岡本 浩和

>雅之様

なるほど、そういうことですね!

>意識的にブログ本文と全然関係ないコメントにしていますが、

むしろその方が大歓迎です。
ひねっていただいた方が頭の体操にもなりますし・・・。(笑)

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