バレンボイム指揮ウェスト=イースタン・ディヴァン管のベートーヴェン(2011Live)を聴いて思ふ

松岡正剛著「擬MODOKI—『世』あるいは別様の可能性」を読んだとき、即座に思い出したのがダニエル・バレンボイムのベートーヴェンだった。

バレンボイムがウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラを指揮したベートーヴェンの交響曲を聴いて正直僕は驚いた。シュターツカペレ・ベルリンとの全集が、フルトヴェングラーの模倣丸出しの(すなわち「擬き」)、しかも、どこか中途半端な印象の否めない腑抜けのような演奏だったものだから、ほとんど期待しないで耳にしたからなおさら。
明らかに「ものまね」をスタートとしながら、ついに彼は自分のスタイルを確立し、保守と革新の両方を串刺しにして一本にしたような、堂々たるベートーヴェンを獲得した。とても素晴らしいと僕は思う。

松岡正剛さんの言葉を引く。

文字通りには「擬く」とは「何かに似せてつくる」ことをいう。偽装すること、扮装することがモドキで、そのように擬かれたものもモドキだった。
何かに似せてつくるのだから、そうやってつくられたモドキはすべて「まがいもの」であって「まねもの」であり、ありていにいえば「にせもの」だ。つまりはイミテーションであって、フェイクであってシミュラークルであり、コスプレなのである。しかしそれは、どこか本質的なものやことに導かれたうえでのミミクリーや模倣にもなっていて、それゆえモドキは何かの近似体であって、何かの相似物であることを告知しつづけるものなのである。
松岡正剛著「擬MODOKI—『世』あるいは別様の可能性」(春秋社)P229-230

ここで松岡さんは「にせもの」を正面から否定しない。むしろ、それもあり、否、なければならぬものとして定義している。なるほどと僕は膝を打つ。

則天去私をしたいとか禅で悟りを得たいなどとは思いもよらないが、世間とは結構な距離をとってきた。なぜ付き合いきれないのかといえば、ほんとうは万事や万端が複雑なのに、多くは「擬」でできているはずなのに、世の中がぼくに見せている姿は、まるで簡便に主張や施策や民主主義や予算配当が成り立つようになっているからだ。これには付き合えない。
世の中がそう見えるのは、世の中は手続きと制度でみっちりできあがっているからである。ずれや杜撰や非一貫を極端に消したがる。これが嫌になる。これでは必ずや「きのふの空」がなくなっていく。
~同上書P30

世のすべてが擬きでできているなら、ずれや杜撰はありで、となるとロジカルでは説明し切れない矛盾があるのは当然のこと。僕は気持ちが楽になった。そして、一層いろいろな解釈の可能性を持つ「音楽」の美しさを思った。たった今僕たちが聴いている音楽こそ「擬」だといえまいか。
さらに、松岡さんは次のように語る。

ぼくが綴っておきたかったのは、「つもり」と「ほんと」は区別がつきにくいこと、科学にも「借りもの」や「借り先」があること、ときには「世」を非線形な複雑系として捉えること、その複雑系にはしばしば創発がおこること、システムとコミュニケーションには「もと」というものがあって、そこにコンティンジェントな出入りがあることを認めること、これらは、ぼくがこれまでの仕事と人生のなかで長らくめざしてきたこととほぼ同じだったということだ。
~同上書P263

バレンボイムの芸術は、それこそ「つもり」と「ほんと」を行き来して、創発された代物だろう。彼は少年時代、フルトヴェングラーに才能を買われ、共演を求められたというほどの手腕の持ち主だ。そういう彼だからこそフルトヴェングラーから受けた影響は極めて大きい。

フルトヴェングラーは、テンポにゆらぎがあることは許されるばかりでなく必要なのだ、と暗黙のうちに信じていた。それぞれの最小単位の表現を達成するために必要だという理由もあるのだけれど、そればかりではなく、逆説的だけれども、形式という感覚を獲得して、隆盛と退潮を表現するためでもあった。そういうかすかなゆらぎが、形式的な構造の印象を獲得するために必要だったわけだ。もちろん、そのようなゆらぎは感知できないほどのものでなければならない。これが意味するところは、音楽創造の大原則の一つは移行の技術だということだ。
アラ・グゼリミアン編/中野真紀子訳「バレンボイム/サイード『音楽と社会』」(みすず書房)P100

「ゆらぎ」という「移行の技術」は、そもそもワーグナーが音の連続性を重視したところと重なるだろう。バレンボイムは、ワーグナーが音響の色彩と音響の重量という2つの概念を重視したことに着眼し、彼が世界全体に対して例外なく音楽というもののとらえ方に影響を与えたと分析する。

そのため、第二次世界大戦までは、ワーグナーの考えを無視することはできなかった。それがワーグナーから来たことを知っているか否かにかかわらず、それらは伝統になったのだ。指揮者がフルトヴェングラーであろうが、フェリックス・ワインガルトナーであろうが、ブルーノ・ワルターであろうが、ある意味では、こういう考えに明らかに完全に対立していたトスカニーニのような人物であってさえも、これらの原則に夢中になるのを抑えることはできなかった。
~同上書P110

それならば、ワーグナーの音楽を徹底的に研究し、またフルトヴェングラーの方法を真似、音楽の色彩と重量というものを追究しながら「移行の技術」を磨き続けた結果が、2度目のこのベートーヴェン全集ということになろうか。

ベートーヴェン・フォー・オール
・交響曲第1番ハ長調作品21
・交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」
・交響曲第2番ニ長調作品36
・交響曲第4番変ロ長調作品60
・交響曲第5番ハ短調作品67
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
・交響曲第7番イ長調作品92
・交響曲第8番ヘ長調作品93
・交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」
アンナ・サムイル(ソプラノ)
ヴァルトラウト・マイアー(メゾソプラノ)
ペーター・ザイフェルト(テノール)
ヴォルフガング・コッホ(バス)
ケルン大聖堂声楽アンサンブル
ダニエル・バレンボイム指揮ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラ(2011.8.23-28Live)

フルトヴェングラーの呪縛から解かれ、飛翔するバレンボイムの魂が、ようやくベートーヴェンのそれと一つになった印象。例えば、第4番変ロ長調終楽章終結の自然なリタルダンドに惚れ惚れ。また、第5番ハ短調第1楽章コーダ直前の(フルトヴェングラー紛いの)大袈裟なパウゼのない、一気呵成の解放感。あるいは、「田園」交響曲のスケルツォ最後の大きなリタルダンドに目から鱗が落ち、第4楽章「雷雨、嵐」後半部、弦の意図的な漸強漸弱に思わず唸る。ちなみに、第7番イ長調第1楽章冒頭の、ブワーンと鳴る、(フルトヴェングラー譲りの)独特のアインザッツのずれはいかにも血の通った、人間らしい響きだ。あるいは、第3楽章スケルツォでのティンパニの猛烈な強打に感涙。終楽章も無駄に追い込まず、自然なアッチェレランドで全曲を見事に締めくくる。

ベートーヴェンの交響曲第7番の最終楽章を例にとると、それを速く、あるいはやや速く、あるいはとても速く演奏する代わりに、(このあたりは、さじ加減として許されている範囲だと思うが)僕らはゆっくりと柔らかく演奏している。「速く、大きな音で」と書かれているのだが、それでは内容が表現できないからだ。
~同上書P153

これは2000年12月の対話での言葉なのだが、バレンボイムの基本解釈は2011年時点でも変わっていない。
ちなみに、驚くべきは第9番ニ短調。第1楽章冒頭からフルトヴェングラーが憑依するかのような解釈で、しかもそれが堂に入り、擬きでありながらまさに「本当」を体現するものになっているのだからすごい。終楽章、チェロのレチタティーヴォ直前の間といい、チェロの超弱音による主題提示の神秘性はフルトヴェングラー以上の感動を与えてくれるのだから本物。

なお、全曲、余計な反復を全て省略している点も理想的。あくまで好き嫌いあろうが、個人的には最高の全集だと思う。

 

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