8月も残すところあと2日。
午前中は例によって「音浴じかん」。午後からは「ワークショップZERO~ショートセミナー」。その後、新宿にてアポイント。あっという間に一日が終わる。明日は、先日のセミナーの第2日目。またどんなことが起こるのだろうか・・・、楽しみである。
若い頃、あまり歌曲には関心を持てなかった。というより、いわゆるクラシックの歌唱法に正直抵抗があったことと、歌詞の内容が即座につかめないことが関心を遠ざけたのだろう。夜、食事をとりながら久しぶりにヴンダーリヒの歌うシューベルトの「水車小屋の娘」を聴いた。一緒に食事をとっていたKちゃんがシューベルトと聞いて、即座に「魔笛」ですよね、と答えた。いやいや「魔笛」はモーツァルトだよ、ひょっとして「魔王」のこと?と聞いたらその通りだった。
そういえば、初めてリートらしきものを聴いたのは、小学校だか中学校だか忘れたが、音楽の授業で聴いた「魔王」だったように思う。確か原語での歌唱の他、邦訳バージョンを聴かされたように思う。「Mein Vater, mein Vater・・・(お父さん、お父さん・・・)」という件は鮮烈で、未だに音楽室でのその光景を思い出せるほどだ。
それでも、そのことによって決してクラシック音楽好きにはならなかった。良い曲だなとすら感じなかった。何事にも時期とタイミングがあるのだろう。その何年後かにショパンやモーツァルトの音楽から決定的な洗礼を受け、以後レコードオタク、クラシック音楽オタクになってゆくのだから。
シューベルト歌曲については残念ながら知識は乏しい。知識どころか体感も極めて少ない。好んで聴くようになったのもここ数年のこと。それでも齢を重ねるにつれ、シューベルトという天才の生んだ心の奥底に届く諸曲を耳にしながら、少しずつ「歌曲」といいうものの重要性、西洋音楽においての人間の声の重要性がわかってきたように思う(遅ればせながら・・・)。
昨日も書いたが、ゲーテの「ファウスト」にインスパイアされて生み出されたクラシック音楽は極めて多い。それくらいに古今の音楽家にとって「魂を触発される」何かがこの戯曲の中にあるのだろう(それが何かは今の僕にはまだまだわからないが)。シューベルトの「糸を紡ぐグレートヒェン」もそのひとつ。バーバラ・ボニーの歌うこの歌曲を聴いていたら、久しぶりに「水車小屋の娘」を聴きたくなった。
というわけで、ヴンダーリヒ。
シューベルト:歌曲集「美しき水車小屋の娘」D795
フリッツ・ヴンダーリヒ(テノール)
フーベルト・ギーゼン(ピアノ)
フィッシャー=ディースカウの安定したバリトンも魅力的だ。でも、ヴンダーリヒの(能天気な?)明るい歌声を聴いていると、彼がこの数ヶ月後に突然死を迎えるとは思えないほどで、遺された人々に「悲しんでくれるな」と本人がまるで明るく振舞いつつこれらの歌を披露しているようにも感じることができる。
それにしても繰り返し聴くと、シューベルト歌曲集の素晴らしさが一層身に染みる。特に、終曲「小川の子守歌」は静謐と安寧を湛えた名曲。
安らかに、安らかに!
眼を閉じて!
旅人よ、疲れた旅人よ、家に帰ったのだよ。
なお、この音盤には「ます」、「春の想い」、「野ばら」というシューベルトのリートを代表する諸曲もカップリングされている。いずれも見事だ。
おはようございます。
シューベルトの歌曲のCDで、私が無人島に持っていきたいのは、「美しき水車小屋の娘」でも「冬の旅」でもなく、遺作でトルソの歌曲集「白鳥の歌」です。
シューベルトは、「美しき水車小屋の娘」「冬の旅」のミュラーや、ゲーテ、シラーなど、様々な詩人の詩に曲を付けましたが、私が最も深いと心から共感しているのは、「白鳥の歌」での、ハイネの詩の六曲です。皆、「冬の旅」がシューベルトの歌曲集の最高傑作だといいますが、私は、ハイネとミュラーの、詩人としての「格の違い」を思わざるを得ないのです。
ここでのハイネの詩は、高度に結晶化していて、「美しき水車小屋の娘」「冬の旅」に私がどうしても感じてしまう、気恥かしさがないのです。
この三大歌曲集をブルックナーの交響曲で比喩的に対比すると、こういうことになります。
交響曲第7番 ⇒「美しき水車小屋の娘」
交響曲第8番 ⇒「冬の旅」
交響曲第9番 ⇒「白鳥の歌」
連作歌曲集として完成している最高傑作は「冬の旅」ということに異論はありませんが、より「失恋」がテーマのストーリーの枠を超えて、芸術的に本当に深いのは「白鳥の歌」ではないのか?と、思ってしまうのです。
百聞は一見にしかず、「白鳥の歌」から、ハイネの詩の訳詞を読んでみてください。
ご紹介の「美しき水車小屋の娘」ヴンダーリヒの録音、昔から大好きです。
「白鳥の歌」は、ヘルマン・プライの71年録音(ピアノ ジェラルド・ムーア 現在廃盤)を本日の私のお薦め盤といたします。お持ちだったでしょうか?
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88-%E7%99%BD%E9%B3%A5%E3%81%AE%E6%AD%8C-%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A4-%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3/dp/B00005FF62/ref=sr_1_10?ie=UTF8&s=music&qid=1251582732&sr=1-10
>雅之様
おはようございます。
本文中にも書きましたように、僕はシューベルト歌曲については知識が少なく、今回いただいたようなコメントは大歓迎です。
いわゆる三大歌曲集についても聴き込みが極めて浅く、いろいろと教えていただきたいと思っておりました。
>芸術的に本当に深いのは「白鳥の歌」ではないのか?と、思ってしまうのです。
ブルックナーの交響曲に比喩してのご説明、大変分かりやすいです。なるほど、ですね。
モーツァルトの第27番コンチェルトが持つ深い「明るさ」と同種のものがあるというならなおさら最高傑作だと思います。
しかしながら、こういう訳詩をみていつも思うのですが、原語で直接理解できたらどれだけ深く享受できるか・・・。
いずれにせよ、ちょっと勉強してみないとと思いました。
ありがとうございます。
ご推薦のヘルマン・プライ盤、未聴ですのでこちらで勉強します。