何気なくテレビをつけたらたまたま書道の時間で、ある先生が「書の一回性」ということを説いておられた。一度書いた字は二度と同じものを書くことは出来ないというような意味であったが、聞いていて似たような話だなと思った。私たちがある楽曲を演奏するのも実にただ一回限りのもので、二度と同じ演奏をすることは出来ないのである。
~朝比奈隆回想録「楽は堂に満ちて」(音楽之友社)P151
「ただ一度の生命」と題する朝比奈隆のエッセイ。
今の時代、巷間取り沙汰される芸術の「一回性」。時間は二度と戻って来ないのである。だからこそ、結果も大事だが、その過程も同様に極めて重要なのだ。
変化の過程を追うのは実に興味深い。
朝比奈御大がブルックナーの演奏を始めた頃の音源が数年前にリリースされたが、所々ノヴァーク版の指定を採用しており、後年の表現とはうって変わっていて、どちらかというと動的で、しかも色艶のある、後期ロマン派風解釈を旨とした演奏であることに僕は驚いた。それでも全体の息吹、音調は間違いなく朝比奈のそれ。第1楽章アレグロ・モデラートからその印象は変わらない。展開部の躍動と愉悦、そして金管の咆哮を伴う弦楽器の懸命なうねり。テンポの忙しい伸縮が気にならなくはないが(コーダのアッチェレランドは最晩年のそれに近いのだろうか)、少なくとも音楽への共感は並大抵のものでないことが如実に伝わる。また、第2楽章アダージョの緩やかなテンポによる深遠な響きは、すでにこの頃から獲得されしもので、間違いなく朝比奈のブルックナーの体現。それに、オーケストラの瑕は致し方ないにせよ、何よりクライマックスでの(ノヴァーク版による)打楽器のロールやシンバルの追加を施している点が面白い。
雑音がはいっても、小さなミスがあっても、その気迫は圧倒的であるのは、オーケストラのただ一度の燃焼によるものであろう。しかし、それには強い自信と権威とが必要である。私もこれからの残された時を、やり直しのない、一回限りの仕事を精いっぱい積み重ねることで埋めたいものである。
~同上書P152-153
音楽とは生命なのだとあらためて思った。
・ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(ハース版)
朝比奈隆指揮日本フィルハーモニー交響楽団(1968.12.10Live)
東京文化会館での実況録音。
第3楽章スケルツォは粗削りで、トリオは柔らかく心をこめて歌われる。それにしても、終楽章の燃焼度が並みでない。うるさいくらいの金管群の唸り。
終演後の嵐のような拍手喝采は当時から健在。良い音楽は人を惹きつける。
ところでこの日、遠くストックホルムでは川端康成さんのノーベル文学賞授賞式が行われていた。
受賞作は「雪国」。
汽車が動くと直ぐ待合室のガラスが光って、駒子の顔はその光のなかにぽっと燃え浮ぶかと見る間に消えてしまったが、それはあの朝雪の鏡の時と同じに真っ赤な頬であった。またしても島村にとっては、現実というものとの別れ際の色であった。
~川端康成作「雪国」(新潮文庫)P74
日本の文学が初めて世界に認められた日に、後にブルックナーの大家となる日本人指揮者の挑戦的なブルックナーが東京で鳴り響いていたという偶然が奇蹟のように僕には思われる。
お客はたいてい旅の人なんですもの。私なんかまだ子供ですけれど、いろんな人の話を聞いてみても、なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、いつまでもなつかしいのね。忘れられないのね。別れた後ってそうらしいわ。向うでも思い出して、手紙をくれたりするのは、たいていそういうんですわ。
~同上書P20
駒子の言葉はいちいち響く。特に異性を前にしてはあまり赤裸々にならない方が得策なのかもしれぬ(笑)。
還暦の朝比奈御大には色気が充満する。
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朝比奈先生の評価は、宇野功芳さんがいなくても十分高まったんじゃないかと今は感じています。むしろ、宇野さんの評論を読まずに聴いたほうが先入観なく聴け、はるかに健全だったのではないかと。
・・・・・・美術品では古いものほど生き生きと強い新しさのあるのは言ふまでもないことでありまして、私は古いものを見るたびに人間が過去へ失つて来た多くのもの、現在は失はれてゐる多くのものを知るのであります。・・・・・・ 川端康成「反橋」
>雅之様
御大は宇野さんの後押しに随分感謝されていましたから意外にわかりませんよ。
しかし、愚直にああやって93歳まで舞台に立たれてたので、そういう見方も可能とは思います。