グールドのプロコフィエフ ソナタ第7番(1967.6&7録音)ほかを聴いて思ふ

数年前に亡くなられたオーディオ評論家の江川三郎さんは、いわゆるローエンド・オーディオを提唱されていた。確かにその説には相応の信憑性があるように僕は思う。

10年近く前、2度ほど直接お会いし、お話を伺ったことがある。その時もソニー製の携帯スピーカーを、ユニット部分を上にして肩からぶら下げて音楽を聴くのが一番音質良く、ナチュラルなんだと熱弁されていた。
試してみなさいと差し出されたシステムを言われるがまま肩にかけ、音を聴いた僕はその時、実際驚愕した。確かに豊饒な音楽が直接耳だけでなく全身で感じることができた。気のせいではない。誰もが気軽に扱える携帯システムであれほどの臨場感を味わえたことに僕はとても感動した。

グレン・グールドのアレクサンドル・スクリャービンやセルゲイ・プロコフィエフが実に素晴らしい。
ヘッドフォンを通すグールドは、演奏の細部までもが明確に聴き取れ、何より音楽の持つ熱量が半端なく伝わる。なるほど彼はその芸術を、レコード(録音)で聴くことを前提としたのだった。

ちょうど50年前に録音されたプロコフィエフの変ロ長調ソナタにある自然な潤い。彼の弾くバッハにあるどこか人工的な誇張はここにはない。第1楽章アレグロ・インクィエートの壮絶かつ強靭な音楽が、一部の隙なく、集中力をもって紡がれる。また、アンダンテ・カロローザの流麗な歌は鋼鉄の響きを見事に緩和するもので、夢見るグールドの真骨頂。そして、第3楽章プレチピタートの猛烈な音の動きに、テクニックだけでないグールドの有能な類稀な音楽性をあらためて発見するのである。

・スクリャービン:ピアノ・ソナタ第3番嬰ヘ短調作品23(1968.1.29, 30 &1968.2.6録音)
・プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第7番変ロ長調作品83(1967.6.14, 15 &7.25録音)
グレン・グールド(ピアノ)

スクリャービンの激情、また浪漫。
作曲当時、周囲の反対を押し切ってヴェーラ・イヴァノヴナ・イサーコヴィチと結婚したことが影響するのかどうなのか、第1楽章ドランマティコの情熱的な音楽は素晴らしく、ここでのグールドの演奏はまるで作曲家が乗り移ったかのような現実味のある魂の叫びを念写する。また、第2楽章アレグレットの、確信に満ちた音の伽藍のような主部と中間部の短くも優美な歌の絶妙な対比に、グールドはもちろんスクリャービンの天才を思う。そして、第3楽章アンダンテの、愛の囁きのような調べに心動かされ、続くいかにもスクリャービンらしい終楽章プレスト・コン・フォーコの熱風に火傷をする思い。

グールドがスクリャービンやプロコフィエフの他のソナタの録音を遺さなかったことが残念でならない。彼がいま少しの生を得ていたとするなら、おそらくレコーディングしたことだろう。それほどに相性抜群の作品たち。
グレン・グールドの録音こそローエンド・オーディオ向けの代物だと僕は思う。

 

ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。


音楽(全般) ブログランキングへ

にほんブログ村 クラシックブログへ
にほんブログ村


2 COMMENTS

雅之

>グレン・グールドの録音こそローエンド・オーディオ向けの代物だと僕は思う。

真の意味での感動は、極端な話、たとえばAMラジオの音声のほうが、ハイエンド・オーディオで聴くよりも、よっぽど伝わってくるんじゃないかと、最近よく思います。

德永英明の「 壊れかけのRadio」を歌いたくなりました(笑)。

https://www.youtube.com/watch?v=C7QVaahn44A

返信する
岡本 浩和

>雅之様

>AMラジオの音声のほうが、ハイエンド・オーディオで聴くよりも、よっぽど伝わってくるんじゃないかと、最近よく思います

わかる気がします。人間っぽい温かみがありますよね。

返信する

雅之 へ返信するコメントをキャンセル

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む