ツィマーマン&ウィーン・フィルのベートーヴェン第1&第2協奏曲を聴いて思ふ

beethoven_piano_concerto_zimerman_bernstein長年音楽監督の地位にいた人が亡くなった直後のオーケストラの音は、誰が振ってもその人の音が出ると言われる。「まるで霊が乗り移ったかのよう」と表現されること多々だが、奏者の記憶、あるいはホール、すなわち場の記(=気)録などが相まってそういう現象を起こすのだろうと想像する。

レナード・バーンスタインが亡くなってかれこれ24年が経過するが、彼が最晩年にメジャー・オーケストラとライヴ録音した数々の演奏は、凡演も確かに存在するが、ほとんどが一世一代の名演奏であり、その極端にスローテンポの、うねりと咆哮に満ちる音楽の浪漫的重厚感と存在感は聴く者を見事に圧倒する。

ところで、クリスティアン・ツィマーマンが、ポーランド祝祭管弦楽団とショパンの2つの協奏曲をプログラムに引っ提げてのツアー、例の企画はどうなってしまったのだろう?当時おそらく来日の噂もあったのではなかったか・・・?あの、過去のどんなショパン弾きも成し得なかった前時代的超浪漫的解釈の権化である演奏の真価を生で体験したかったと今でも思う。

まるで突然変異のように現れたツィマーマン&ポーランド祝祭管のショパンの源泉は、晩年のバーンスタインとの幾度かの協演によるところが大きいのでは・・・。メンゲルベルクも舌を巻くだろう弦の濃厚な響きと揺れに揺れるテンポ。音楽がほとんどその場で生み出されたかの如くの即興性。どこをどう切り取っても、あの生々しさは最晩年のバーンスタインを規範にしたとしか思えない。

その2人が協演しながら、バーンスタインが逝ってしまったがゆえに完成されなかったベートーヴェン全集において、第1番と第2番はあえて指揮者を立てず、ツィマーマンが弾き振りを披露する。この自信に満ちた棒さばき、演奏には、どうにもバーンスタインの霊が乗り移っているようにしか思えない「濃厚さ」が在る。そして、緩徐楽章に感じられる、静寂と感謝の念はツィマーマンがバーンスタインに捧げた「心」だろう。

ベートーヴェン:
・ピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15
・ピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品19
クリスティアン・ツィマーマン(ピアノ&指揮)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1991.12録音)

ひょっとするとバーンスタインだったらもっと粘着質の一層ゆっくりの演奏になったのかも。作品15の第2楽章ラルゴにおけるピアノの音色は何かが「抜けたように」実に清楚で澄んでいる。それでいて「濃い」のだから堪らない・・・。終楽章ロンドも決して慌てない。あくまで悠々と、そして愉悦に満ちながらレニーを追悼するのである。
作品19の第2楽章アダージョの悲劇的な、哀感に溢れる音楽はベートーヴェンの心情であり、ツィマーマンの詩情である。確固たる信念の下、ここでもバーンスタインの魂に触れる。

本日、レナード・バーンスタイン96回目の誕生日。1980年代に、レニーの数々の名演奏を通じて僕はクラシック音楽に開眼した。大いなるその扉を開いてくれたレニーにあらためて感謝する。

 

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1 COMMENT

畑山千恵子

肯けますね。ツィマーマンのショパン第1番、第2番の弾き振りはさすがでした。何回か取り出してみても、ショパンの音楽が蘇ってきたと感じていますね。

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