ピリスのモーツァルトK.281, K282 &K.533/K.494(1990.7&8録音)を聴いて思ふ

清廉。これまで幾度も聴いてきた音楽が、何度も耳にした音盤が突如として稀代の名盤に変わる瞬間。

自分の心のなかに平安をもたらすこの音楽は、ひとつ間違うと大きな闘いの渦に巻き込まれてしまうことにもなりかねません。音楽は勝敗をつけるものではなく、人と争うものでもありません。人生を豊かにしてくれるものです。その真意が理解できれば、おのずと素晴らしい演奏が生まれるはずです。

マリア・ジョアン・ピリスの、何でもない、当たり前の、この言葉に感動した。
BBCミュージック・マガジンによると、ピリスの演奏はまるで呼吸のように自然体なのだと。言い得て妙。

心を開いて、まず音楽を聴くこと。楽譜に忠実に、音楽そのものから学ぶことが大切です。今のピアニストたちは、キャリアやコンサート、コンクール、そして「闘う」ことに振り回されています。自分と闘い、音楽と闘い、楽器と闘い、社会と闘っている。そうした「闘い」から真に美しいものは生まれません。本当に大切なものだけを残して、自分の立っている場所から余計なものは一掃してしまうといいと思います。

言うは易く、行うは難し。
しかし、彼女が素晴らしいところは、言葉を実際に体現していること。
自分の持つ方法で、いかにシンプルに、そして他と調和するか。
彼女のモーツァルトはそのことを教えてくれる。
ソナタ変ロ長調K281の大らかで優しい調べ。ハイドンに影響を受けつつも、モーツァルトのそれは感情の表裏が同時に刻印される。第1楽章アンダンテは美しい。また、第2楽章アンダンテ・アモローソの息の長い、可憐な透明感。そして、終楽章ロンド、アレグロが眩しく切ない。

あるいは、ソナタヘ長調K.533/K.494の、この世とあの世がギリギリで交錯する、まるで能のような神秘。なるほど、前半2つの楽章と終楽章の作曲の間にはブランクがあり、その間、父レオポルトが亡くなっているのだ。

ぼくたちの最愛の父の急逝の知らせが、ぼくにとってどんなに悲しいものだったか、容易にお察しいただけるでしょう―この喪失は、姉さんにもぼくにも、同じものなのですから。今のところヴィーンを去ることは(それはむしろ姉さんを抱擁する喜びのためにしたいことですが)とてもできませんし、お父さんの遺産については骨を折るほどのこともないでしょうから、正直のところ、競売に付するということで、姉さんとまったく同意見です。
(1787年6月2日付、モーツァルトからザルツブルクの姉ナンネル宛)
柴田治三郎編訳「モーツァルトの手紙(下)」(岩波文庫)P127

軽快なK.494でのピリスのピアノは、感情を抑制した無心の境地。音符が自然に歌い、旋律を奏でる様にうっとり。

モーツァルト:
・ピアノ・ソナタ第3番変ロ長調K.281(189f)
・ピアノ・ソナタ第4番変ホ長調K.282(189g)
・ピアノ・ソナタヘ長調K.533/K494(アレグロとアンダンテ、ロンド)
マリア・ジョアン・ピリス(ピアノ)(1990.7&8録音)

白眉はK.282(189g)!!このスローテンポから発せられる、夢見るような恍惚のオーラは、少年の頃、モーツァルトを初めて聴いたときの感動に近い静かな興奮を僕にもたらしてくれる。第1楽章アダージョが泣く。また、第2楽章メヌエットもどこか悲しい。そして、終楽章アレグロもゆったりとしたテンポから繰り出され、堂々たる響き!!!

 

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