クイケン&レオンハルトのバッハ「フルート・ソナタ全集」(1988.6録音)を聴いて思ふ

昨夜、アンジェラ・ヒューイットの弾くバッハを聴きながら、僕はアンリ・ゲオンの言葉を思い出していた。いかにも四角四面の厳格な形式の中にあり、それでいて自由で、多様な、すべてを受け入れるまるで水のような音楽たち。

ヨハン・ゼバスチャン・バッハの音楽のリズムほど決定的なものはない。それは歩を運び、仕草を命じ、呼吸を定める。音符ですべてが表現されている。しかしながら、これほどの多様性をもって演奏されることを許す音楽は、ほかに存在しない。この場合、バッハ(および当時のすべての音楽)の演奏については、その楽器が代わったという事実によって、事態は驚くほど悪化していることを率直に認めよう。少くともバッハは、その楽器のために彼の傑作の最も重要な部分を書いているのである。
(アンリ・ゲオン/高橋英郎訳「音楽における翻訳―J.S.バッハをめぐって」)
「音楽の手帖 バッハ」(青土社)P42-43

「フーガの技法」のように、バッハが何の楽器のために生み出したのかわからない、しかし、どの楽器で演奏しても必然性を感じられる名作がある以上、果たしてゲオンのこの断言が妥当かどうかは判断できない。ただし、彼の音楽が、音符ですべて表現されていることは間違いなかろう。

懐かしい歌。
感じやすい、子どもの頃の純真な心を喚起する音楽。
おそらく楽器自体の特性だろう、バッハのフルートのための作品には時間の記憶を超え、感性を大いに刺激する力があるように僕は思う。まさに何も足さず、そして何も引かず、ここにも完全な、音符だけですべてが表現されるエネルギーがある。

J.S.バッハ:
・フラウト・トラヴェルソと通奏低音のためのソナタホ短調BWV1034
・フラウト・トラヴェルソとオブリガート・チェンバロのためのソナタイ長調BWV1032
・2つのフラウト・トラヴェルソと通奏低音のためのトリオ・ソナタト長調BWV1039
・フラウト・トラヴェルソ、ヴァイオリンと通奏低音のためのトリオ・ソナタト長調BWV1038
・フラウト・トラヴェルソとオブリガート・チェンバロのためのソナタロ短調BWV1030
・無伴奏フラウト・トラヴェルソのためのソナタ(パルティータ)イ短調BWV1013
・フラウト・トラヴェルソと通奏低音のためのソナタホ長調BWV1035
バルトルド・クイケン(フラウト・トラヴェルソ)
マルク・アンタイ(フラウト・トラヴェルソ)
ジギスヴァルト・クイケン(ヴァイオリン)
ヴィーラント・クイケン、グスタフ・レオンハルト(通奏低音)
グスタフ・レオンハルト(オブリガート・チェンバロ)(1988.6.27-30録音)

例えば、ホ短調BWV1034とト長調BWV1039は、ケーテン時代の傑作群の一角を成す音楽だが、バルトルド・クイケンの柔らかいフルート・トラヴェルソを支えるレオンハルトの通奏低音の謙虚でありながら典雅な音色に心満たされる。あるいは、無伴奏ソナタ(パルティータ)イ短調BWV1013の素朴で柔和な響きの美しさ。第1曲アルマンドの優しい歌、また、第2曲コレンテの孤独な音、そして、第3曲サラバンドの虚ろな瞑想と第4曲ブレー・アングレーズの勢いと前進性。もちろん、ソナタホ長調BWV1035第2楽章アレグロの軽快な愉悦にも感動する。

なぜわれわれの偉大な現代音楽がバッハであるのか、あるいはバッハから生まれたのであろうか、ここで探求の手をゆるめずに言うなら、明白で確かな事実は、つまり、彼独特のものであり、おそらく彼ひとり所有している〈持続した創造〉の本質的な美徳によって、それ自身評価されているバッハの作品は、たえず新しい花の新しい芽を伸ばしているようであり、請け合ってもよいが、その時代も、その創造者も知らなかった豊かさや発展のなかで、拡がり、展開し、われわれの前に現れるのである。
(アンリ・ゲオン/高橋英郎訳「音楽における翻訳―J.S.バッハをめぐって」)
~同上書P44-45

未来永劫、バッハの音楽は新しい。

 

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