かつて、フランツ・シューベルトの奥深さを内田光子に教えてもらった。
ともすると冗長さばかりが先に立ち、どうにも集中力が持たなかったピアノ作品群に対し、彼女は、どの瞬間も飛び抜けて美しい、光を感じさせる、魂に響く確かな演奏を披露してくれた。そこには想像を超えた永遠があった。
ピアノ・ソナタ第19番ハ短調D958。
作曲の時点で果たして本人に死の自覚はなかったのか?
ほとんど覚醒の域にある、死を目前にしたシューベルトの内なる慟哭。
敬愛するベートーヴェンの形を模範とするも、中身は彼自身以外の何者でもない。第3楽章メヌエットなどは、シューベルトの他に誰も真似できないであろう密やかな「歌」がある。終楽章アレグロの愛らしい歌も然り。この音の洪水の中にいつまでも浸っていたいほど。
それにしても内田光子のピアノは、時に激しく、時に優しく、おそらく感情の起伏激しかったであろうシューベルトの音楽の機微を見事につかみ取り、完璧にそれを再現する。
作曲からわずか2ヶ月後の、最後の手紙には次のようにある。
ぼくは病気だ。もう11日間もなにも食べたり飲んだりしていない。そしてベッドと椅子のあいだをよろよろと往復している。リンナが往診に来てくれている。なにか食べようとしても、すぐ吐いてしまう。
(1828年11月12日付、ショーバー宛)
~喜多尾道冬著「シューベルト」(朝日選書)P296
シューベルトの死因は梅毒によるものだったらしい。となると、頻繁に幻聴や幻覚があったかもしれない。何であれ、天才を媒介にすると、妄想や悪魔の声も人間技とは思えぬ創造物として現象化するということだ。
シューベルト:
・ピアノ・ソナタ第19番ハ短調D958(1997.8録音)
・ピアノ・ソナタ第20番イ長調D959(1997.5録音)
内田光子(ピアノ)
ピアノ・ソナタ第20番イ長調D959。
息の長い浪漫溢れる第1楽章アレグロは、空前絶後。また、第2楽章アンダンティーノの悲しい抒情と内燃する強烈なパッションは、シューベルトの生に対する執着を示すよう。ここでの内田の、微かな、祈るように静かに打ち鳴らすピアノが本当に素晴らしい。そして、可憐に弾ける第3楽章スケルツォの、モーツァルトに優るとも劣らぬ「遊びの精神」の飛翔が、作曲家をそのまま天国に誘うよう。さらに、終楽章ロンドの、シューベルトらしい類稀な歌謡的な旋律に思わず唸る。
かすかなれども愛らしき
ものの音、胸を吹き過ぎぬ。
ひびけ、かそけき春のうた。
ひびけ、霞めるおちかたへ。
「かすかなれども愛らしき」
~片山敏彦訳「ハイネ詩集」(新潮文庫)P135
シューベルトの音楽にはいつも「歌」がある。
その「歌」は、どんなときも深遠だ。
ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。