近衞秀麿指揮読響のベートーヴェン「田園」ほか(1968.3録音)を聴いて思ふ

beethoven_6_konoye_yomikyo380近衞秀麿子爵の女性遍歴の派手さに驚きを隠せない。「英雄色を好む」という言葉通り、彼の音楽にある艶やかさ、潤いはそういう体験にひもづいたものであり、何十年も前に録音された彼の演奏が実に有機的な響きを持つ理由がわかったように思った。
それにしても数々の編曲など、その緻密な作業は、女性に対してと同様彼の性格の「マメさ」を象徴する。

もちろん、首相など国家の重鎮であった兄文麿のバックアップなくしては世界的な規模での彼の活躍はなかったわけだが、それにしても力量ない者がそう易々とのし上がれる甘い世界ではない。近衞文麿子にはやっぱり類い稀な才能があったようだ。

(1933年)10月3日午後8時、秀麿が指揮するベルリン・フィルハーモニーの定期演奏会は行われ、そこで秀麿自身、予想もしなかったハプニングが起きる。それはシュトラウスの曲を演奏し終えた時だった。会場から一斉に拍手が湧き上がり、秀麿も演奏の成功を実感した時、客席から初老の男性がステージに向かって早足でやってきた。その顔をよく見ると、リヒャルト・シュトラウスだったのだ。フィルハーモニーの大ホールは、作曲者本人の登場によって興奮の坩堝と化した。舞台に上がったシュトラウスは、秀麿とコンサート・マスターの手を取ると、秀麿に告げた。
「素晴らしい。君は私が考えたとおりの演奏をしてくれた!」
リヒャルト・シュトラウスが、ホールを埋め尽くした聴衆に向けて、秀麿に賛辞を送るポーズをとると、その仕草に呼応した聴衆は、秀麿に惜しみない拍手を送り続けた。すべての演奏を終えた秀麿が楽屋に戻ると、控室の入り口でフルトヴェングラーが拍手をしながら秀麿を迎えた。
菅野冬樹著「戦火のマエストロ近衞秀麿」(NHK出版)P108-109

フルトヴェングラーの表現に決して引けをとらぬ素晴らしさ。まさに19世紀独墺系巨匠たちの衣鉢を継ぐ濃密なベートーヴェン。それも、(おそらく)3管編成を基本とする自身の編曲版によるものであるがゆえの圧倒的パワー。低音がうねり、高音が見事に弾ける。

ベートーヴェン:
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
・劇音楽「エグモント」序曲作品84
近衞秀麿指揮読売日本交響楽団(1968.3.20&21録音)

恣意的でない、緩やかでありながら自然なテンポ。第1楽章「田舎についたときの晴々とした気分の目覚め」における主題の提示から実にふくよかで安心感に包まれた響き。とてもかつての杉並公会堂で収録されたとは思えないまろやかさ。続く第2楽章「小川のほとりの情景」の安寧。
とはいえ、一層素晴らしいのは第3楽章「田舎の人々の楽しい集い」以下。
壮絶な第4楽章「雷雨、嵐」は堂々たる歩みで、木管、金管、そして打楽器が総動員となり凄まじい音楽を表出する。
そして、その後に訪れる終楽章「牧人の歌、嵐の後の感謝に満ちた気持ち」における祈りの深さと生命溢れる音楽に、標題通りの「感謝の念」を禁じ得ない。
なるほど、音楽が頂点に達したときのカタルシスと、コーダの幽玄さに人と人とが真にひとつになること、あるいは人と自然とが一体化することの重要性を思う。

この「田園」交響曲は、戦前、戦中、戦後と、大きな戦争の中を生き抜いた近衞子爵のまさに「平和への想い」が詰まった大熱演である。不穏な空気漂う欧州の今を知ったら近衞子は何とおっしゃるのだろう?

近衞秀麿子爵117回目の生誕日に。

 

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