もう随分になる。シェーンベルクの未完の歌劇「モーゼとアロン」を自分のものにしようと悪戦苦闘して。この際、音楽の「難しさ」は棚に上げる。12音音楽、セリー音楽・・・、このあたりの理解となると専門的に勉強していない僕の頭の容量を超えるゆえ。
モーゼが「自らに欠けているのは言葉だ」と嘆くように、物語も音楽そのものも決して記号化できないのでは。その意味では、音符や音楽記号ですらシェーンベルクが言わんとしたことを伝えているのか真に怪しい。彼が何年も試行錯誤を繰り返しながら、大戦の影響、その間の亡命騒ぎのごたごたなどあるにしても、結局この作品を完成することができなかったのは「旧約聖書」の物語(出エジプト記)を種に人々に感銘を与える、否、啓蒙する芸術作品に昇華させようという「無理」あったからなのでは?あるいは、彼が「私は1つのセリーで1曲のオペラを作ることができる」と自慢(?)するように、エゴが先行しての創造行為だったからということか(いや、作曲行為などというのはそもそもエゴの発露なのではないのか?しかし、真に後世に残る作品を書き上げるとき、作曲家はおそらくトランス状態で、思考なしにまるで自動書記のごとく生み出しているのかもしれないと想像する)。
光(=神の叡智)を言葉にすること、あるいは偶像化することの苦悩をこのオペラはテーマにする。神というのは実態がない絶対真理。それを言語化したのが聖書やコーランや仏典の類だろう。しかし、これを正しく理解することは人間にはおそらく不可能。
「老子」をひもといてみる。
これを視れども見えず、名づけて夷と曰う。これを聴けども聞こえず、名づけて希と曰う。これを搏うるも得ず、名づけて微と曰う。此の三つの者は詰を致すべからず、故より混じて一と為る。
~老子道徳経上編第14章
ここに「すべて」が在るのでは?そして、モーゼもこのことを表したかったのではないのか?
シェーンベルク:歌劇「モーゼとアロン」
デイヴィッド・ピットマン=ジェニングス(モーゼ、語り手)
クリス・メリット(アロン、テノール)
ガブリエーレ・フォンタナ(若い娘、ソプラノ)
イヴォンヌ・ナーフ(病気の女、コントラルト)
ジョン・グラハム・ホール(若い男&裸の若者、テノール)
ジークフリート・ローレンツ(もう一人の男、バリトン)
ミヒャエル・デヴリン(エフライム、バリトン)
ラースロー・ポルガール(司祭、バス)ほか
ネーデルランド歌劇場合唱団ほか
ピエール・ブーレーズ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(1995録音)
ブラックホールにすっぽり足を踏み入れたかのように、第1幕も第2幕も突然断ち切られるように終わる。あえて真理である「一」のひとつ、「聴けども聞こえず」を何とか表現しようと努力した結果のように思えなくもない(考え過ぎかな)。
シェーンベルクがわかっていたのかわかっていなかったのか、それはわからない。しかし、こういう台本を上梓するところから考えると信仰には篤かったとみる。なるほど彼は宇宙万物の平等を12音技法に託したのかも。オクターブ内の12の音を同等に扱う方法としてそれを発明したことからもそんな気がするのは僕だけか・・・。
そして、もうひとつ僕のわがままな空想。この作品を傾聴するたびにあまりにエネルギーを消耗するのは男性性が強過ぎるからではないのか。特に、母なる大宇宙を司るものが「女性的なもの」だろうと想像する僕は、シェーンベルクが例えばモーゼやアロンにあえて女声(カウンターテナーでも良い)を充てていればもっと普遍的で面白いものになったのではないかと妄想するのだ。
それにしても深淵が拡がる。何という音楽、何という物語。
おそらく・・・、まだまだものにはできない。
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シェーンベルクの場合、一度キリスト教に改宗した後、1933年、ナチスを逃れてパリに亡命した際、ユダヤ教に回帰しました。そうした複雑な事情があります。キリスト教に改宗して、ヨーロッパ人としてアイデンティティを確立せんとしても、ナチスを逃れて亡命した時にユダヤ人としてのアイデンティティに回帰したことがあります。
ただ、シェーンベルクの場合、ユダヤ人であることを利用していたトイウ批判もありました。そうした面を含めて、シェーンベルクと宗教、侵攻の問題は複雑なものがありますね。
>畑山千恵子様
ご教示ありがとうございます。おっしゃるとおりですね。
難しい問題だと思います。