バックハウスの新しい方のベートーヴェン全集は、ピアニストの逝去により「ハンマークラヴィーア・ソナタ」だけ録音されないままになってしまったが、ベートーヴェンのソナタ史の金字塔として古くから認知されており、僕などはバックハウスの「バ」の字もほとんど知らない頃から身近な愛好家たちから(書籍や雑誌や、あるいは先輩諸氏から)洗脳を受け、ベートーヴェンのソナタを聴くなら絶対的にバックハウスの新盤を選択するべきだと随分長い間信じ込んできた。
それは決して間違った見解ではないのだけれど、あまりに定番化されているきらいがあり、価値観の多様性を狂わせ、一律化させてしまわなくもない(大袈裟な言い方だけれど)。
ちなみに、僕の手元にはバックハウスのもう一組のソナタ全集がある。1950年代初頭に録音された旧全集である。音の旧さを理由にぼくはこれまであまりこちらの方を顧みることがなかった。
とはいえ、円熟期のバックハウスの、少なくとも晩年のものよりは技術的にもしっかりした演奏は、ベートーヴェンの醍醐味を享受するという意味ではひょっとすると新盤以上のもので、久しぶりに有名なソナタを収録した1枚を聴いてとても感動した。
特に「ワルトシュタイン」ソナタ。
武骨でそっけないのだけれど、何とも枯れた味わいのこの演奏は聴いていて本当に心地良い。一切のぶれがなく、まったくの脱力状態で、「自ずから然るべきなる」音が聴こえてきそう。ちょうど「エロイカ」シンフォニーやクロイツェル・ソナタ、あるいは歌劇「レオノーレ」が生み出されるのと時期を同じくして創造された音楽には一点の曇りもなく、一粒の無駄もない。前にも書いたが、この時期にベートーヴェンは間違いなく悟ったと直感する。第2楽章モルト・アダージョからロンドに受け継がれる解放のドラマは筆舌に尽くし難く、悟りの波動がそのまま楽曲に転写されているよう。
次いで「告別」ソナタ。1809年から10年にかけて、尊敬するパトロンであるルドルフ大公との別れと再会をモチーフに書かれたもの(だと一般的にはいわれているが真相はわからない)だが、この変ホ長調ソナタに表出する「歓び」の類は単なる一個人に向けてのものでなく、それこそ後年の第9交響曲に通じる「人々がひとつになる」ことに対するもののように思えてならない。すべてを包み込むような大きさのバックハウスの表現がそのことをなお一層強調する。
ところで、1811年10月9日付のブライトコプフ(楽譜出版社)宛手紙ではベートーヴェンは「ルドルフ大公にさえあの『告別』は捧げられていません」と書いている。
意識上ではルドルフ大公のために書き、大公に献呈したものの、一旦本人の手を離れるともっと普遍的な作品として認知されるべきだというベートーヴェンの本音なのかも。多分、とても深い意味があるように思う。