マタチッチ指揮チェコ・フィルのワーグナー「神々の黄昏」組曲(1968録音)を聴いて思ふ

リヒャルト・ワーグナーの知識欲は半端でなかった。しかも、その記憶力たるや言語を絶するものであり、それゆえに古今のあらゆる文献を吸収したことが、あの恐るべき楽劇群の創造につながったのだろうと思うと恐れ入る。彼は間違いなく天才だ。
「コジマの日記3」の訳者あとがきには次のようにある。

ワーグナーは、音楽はもちろん、哲学、思想、文学、歴史、科学など、多方面にわたる膨大な古今(東西)の文献を読破しており、たとえば73年3月14日の記事にあるように、自分の実人生における二度の決定的な場面で「内容も何もわからぬまま恰好のタイミングで飛び出した〈瀆聖Sakrilegium〉という言葉」を、かつて読んだ無数のオペラ台本や小説のテクストのなかから瞬時にして、正確に探し当ててみせる博覧強記ぶりは端倪すべからざるものがある。こうしてワーグナーがみずからの詩(思)嚢を肥やす糧とした読書体験について述べた感想や意見をもコジマは丁寧に拾っており、われわれはそこから「思索する芸術家」ワーグナーの世界観や創作姿勢を読み取ることができるわけだが、そうした所感や見解を理解するためには、そもそも対象となる原典の内容の知識が不可欠な前提となる。
三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記3」(東海大学出版会)P625

学者をしてこう言わしめるのだから、僕たち素人にしてみれば、ワーグナーを芯から理解するのは生涯かかっても無理なのかもしれない。しかし、だからこそ、無謀にも僕たち素人は追究を止められないのだともいえる。

ロヴロ・フォン・マタチッチの編曲による「神々の黄昏」組曲を聴いた。
感性と悟性の奔流。あるいは、聖なるものと俗なるものの拮抗。これほどまでに端的にワーグナーの神髄を示した演奏はないのかも(「ジークフリートの葬送行進曲」が欠けているのは残念だが)。

ワーグナー:楽劇「神々の黄昏」組曲(マタチッチ編)
・夜~
・夜明け(ジークフリートとブリュンヒルデ)~
・ジークフリートのラインへの旅~
・神々の終末
ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(1968録音)

40年近く前、初めて耳にしたときぶっ飛んだ。
久しぶりに聴いて、あらためてため息が出た。時に鎮まり、時に爆発する。クライマックスのうねりと咆哮が脳天をつんざくが、決してうるさくならない。これこそいぶし銀の響きといって良いだろう。

ところで私たちが舞台上にやりとげたことは、いわば二つの極の間に展開されて、不可思議な世界の運命を織りなす織物としての広がりを持つことになったわけだが、この二つの極のことにここでちょっと触れておきたい。一方の極は冒頭にあり、気のおけない水底で愛らしい〈ラインの娘たち〉が泳ぎ廻っている。かつてこれほどに魅力的な情景が目の当たりに眺められ、耳に聞かれたことがあったであろうか?もう一方の極は大詰めにあり、苦悩の大波に打ちあげられた〈ブリュンヒルデ〉の姿に現われている。これほどまでに悲劇的な同情の念を掻き立てられた経験は、誰しも身に覚えがないのではあるまいか。—祝祭劇では全員が感激に燃えた意志の塊りとなり、その意志が芸術上の服従を生み出していたのであるが、その有りようには他のなんぴとたりとも容易に他では見出せぬようなものがあった。
「1876年の舞台祝祭劇を振り返って」
三光長治監修「ワーグナー著作集5—宗教と芸術」(第三文明社)P111

喜びと苦悩、楽観と悲観、喜劇と悲劇、世界が二元であることを「見える化」したワーグナーの天才と、それを見事に演じきった歌手たち、そしてオーケストラの力量。初演後の作曲者自身のこの言が何よりの証。ここでいう神とは僕たち人間であり、その終末が今まさに訪れているのだと、ワーグナーは言いたかったのかもしれない。それゆえに、各々が今なすべきことは、搾取でもなく、勝ち負けにこだわることでもなく、各々が望むことを実現するために、互いが協調することなのだと。

具体的な答は「パルジファル」にあろう。

 

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