ホグウッド指揮エンシェント室内管のベートーヴェン「田園」(1987.9録音)ほかを聴いて思ふ

かつて、いわゆるピリオド楽器の演奏に対して僕はネガティブだった。
色気のないノン・ヴィブラート奏法に、過呼吸になるような高速テンポと地に足の着かない(?)軽快感がどうにも受け入れ難かったのである。

僕の耳はたぶんだいぶ肥えた。また、人生様々経験を積んだ。お陰で器が大きくなったのかどうなのか、ピリオド演奏に対しての抵抗感が不思議となくなった。

クリストファー・ホグウッドのベートーヴェン。
音楽学者の学究的、資料的演奏に陥らない、実に音楽的なパフォーマンスが繰り広げられていることに僕は今さらながら驚きを隠せない。あんなに毛嫌いしていたベートーヴェンが、とても新鮮に響き、その斬新な響きを心から良いと思えるのだから、人間の感覚、感性とは本当に面白い。

どんな場面を思い浮かべるかは、聴く者の自由にまかせる。性格交響曲(Sinfonia caracterislica)—あるいは田園生活の思い出。あらゆる光景は器楽曲であまり忠実に再現しようとすると失われてしまう。パストラーレラ交響曲。田園生活の思い出をもっている人は、だれでも、たくさんの注釈をつけなくとも、作者が意図するところは自然にわかる。描写がなくとも、音の絵というより感覚というにふさわしい全体は分かる。
小松雄一郎編訳「新編ベートーヴェンの手紙(上)」(岩波文庫)P171

1807年のスケッチ帳に残されたベートーヴェン自身の言葉である。「感覚というにふさわしい全体」という言葉が「田園」交響曲のすべてを物語る。19世紀浪漫的情感を排除した、ある意味機械的で冷たい印象を与える古楽器奏法、しかもいかにもホグウッドらしい鮮烈で大袈裟なまでの不感症的ティンパニ強打が逆にものを言うのだ。中でも終楽章「牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」コーダの、祈りの欠片もない極めて冷静な再現。これこそ「たくさんの注釈をつけない」作者の意図を100%表した演奏なのかも。

ベートーヴェン:
・交響曲第2番ニ長調作品36(1984.8録音)
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(1987.9録音)
クリストファー・ホグウッド指揮アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック

パストラール交響曲は絵画ではない。田園での喜びが人の心によびおこすいろいろな感じが現わされており、それに伴って田園生活のいくつかの感情が画かれている。
~同上書P172

上記は、1808年12月の演奏会に際し、ベートーヴェンが付け加えた解説である。ふわふわと浮足立つ第1楽章「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」は、文字通りベートーヴェンの意図した「感情の画」だろう。また、静かに始まる第2楽章「小川のほとりの情景」の、木管群の何という人間味あふれる音色(この楽章だけはとても情感豊かに感じるのだから不思議)。何よりコーダの鳥の描写の巧みさ!

ベートーヴェンが描こうとしたのは真のユートピアであり、ここには美しくも幸福な国があるように僕には思えてならない。

 

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