朝比奈隆指揮札響のブルックナー第0番ほか(1982.5.21Live)を聴いて思ふ

人生の痛恨事は、朝比奈御大のブルックナー初期交響曲の実演に触れる機会を逸したこと。アントン・ブルックナーの習作を含む初期、とりわけ第2番までの交響曲は、彼の交響曲を相応に聴き込んだ好事家が最後に行き着く場所であり、そこにこそ天才の神髄の原点が垣間見られる砦である。素朴でありながら革新的な独創的世界。ひとたびその魔力に取りつかれたならば、生涯のかけがえのない宝物になることは間違いない。

朝比奈隆が第0番を振ったのは、生涯でたった4回。それも1970年代末から80年代初頭の時期に限られたもので、すべてが録音に残され(うち1種はプライヴェート盤)、それぞれが大変貴重なものである。いずれも熱気に満ち、朝比奈のブルックナーの十字軍としての重責を見事に果たす名演奏となっている。

熱気と興奮。最後の第0番となった札幌交響楽団との演奏は、野人ブルックナーの神髄を正しくとらえたもの。殺伐とした印象は、当時の札響の決して精密とはいえないアンサンブルによるもので、しかしそれゆえに壮年期のブルックナーらしい瑞々しさに包まれるのだから興味深い。第1楽章アレグロから堂々たる様相を示し、音楽は一切の弛緩を許さない緊張感に支配される。また、第2楽章アンダンテの悠久の調べは、ヴァイオリン群の悲しげな導入に始まり、木管による繊細な主題に受け継がれる。朝比奈の指揮は実に想いのこもったもので、特に展開部での、重なる弦楽器の崇高な音楽は(彼岸とは言わないまでも)此岸のブルックナーの思考を美しく音化する。

・ハイドン:交響曲第2番ハ長調Hob.I-2
・ブルックナー:交響曲第0番ニ短調
朝比奈隆指揮札幌交響楽団(1982.5.21Live)

この少し前に朝比奈隆がインタビューでブルックナーについて語ったことが面白い(当時、ブルックナーに開眼したばかりの僕は彼の語る言葉に一気に惹き込まれた)。

これ、ぐあいが悪いから直したらどうだって言われると、あの人は割合すなおだから、書き直す。直してしまってから、やっぱり直さない方がよかったと、また書き直す。そういうことを繰り返してますね。作品そのものも、そういうことからくる問題点は多くあると思いますよ。そういう問題も乗り越えて、一世紀近い時間を隔てて、私みたいな外国人がそういうイメージの中へ入り込んでゆき、ああ素晴らしい世界だなと思うようになるのに時間がかかるのも当然ですね。けれどもそれだけの値打はありました。長い時間でしたけれど、いやがられたり嫌われたりするのも我慢して一所懸命やってよかったと思うし、うちの楽員たちだって、むしろ誇りにしていると思います。
「インタビュー ブルックナーの世界」
「音楽の手帖 ブルックナー」(青土社)P145

ブルックナーはあくまでひとつの雛形を追求する。第3楽章スケルツォの響きもブルックナー以外の何ものでもない。そして、終楽章モデラート―アレグロ・ヴィヴァーチェには、「ミサ・ソレムニス」(1854)や「アヴェ・マリア」(1861)からの引用があり、いかにも敬虔なカトリック信者ブルックナーの真意、すなわち音楽という創造物が神という創造主につながるための手段であったことが顕著に示され、ここでの朝比奈の自信たっぷりの表情(ティンパニの強奏、そして金管の咆哮!)に癒され、勇気を奮い立たせられるのだ。これこそ勇気と思いやりの音楽。

ちなみに、前プロのハイドンは軽快でありながら、朝比奈らしい弦楽器をたっぷり鳴らす素朴な演奏。朝比奈は、ハイドンを演奏することを仕事の原点だと位置づけ、ある時期まで全交響曲を舞台にかけることを使命としていたが、その企画も結局は頓挫した。全集とは言わないまでも、御大の指揮するハイドンの交響曲の傑作群がもっと残されていたら素晴らしかっただろうにと、残念でならない。

 

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