サロネン指揮ロサンジェルス・フィルのブルックナー「ロマンティック」(1997.5録音)を聴いて思ふ

金子建志さんが、ブルックナーの初期交響曲を評して興味深いことをおっしゃっている。

更に、文学的な素養や知識云々よりも重要なのは、ブルックナーの交響曲(取り分け初期のそれ)には文章を書く人間だったら自然に備わってくる論理的な語り口、若しくは相手の意識を自分の言いたい事の方へと誘導していこうとする意志が欠けていることだ。ベートーヴェン以来、交響曲の聴き手は、A, B, C, Dという4つの文章が続いている場合、「だから」「しかし」「ゆえに」といった接続語でつなげて最終的にDという結論を導き出すという流れを、暗黙裡のうちに期待してしまうようになった。しかしブルックナーは、そうした聴き方に平然と肩透かしを喰わせるのだ。各ブロックは金管のファンファーレやゲネラル・パウゼで明確に区分され、それぞれ全く独立した世界を形成するのである。
金子建志著「こだわり派のための名曲徹底分析 ブルックナーの交響曲」(音楽之友社)P8

なるほど、彼の交響曲が、「金管のファンファーレやゲネラル・パウゼで明確に区分され、それぞれ全く独立した世界を形成する」独自のスタイルであることが理解できているなら、逆にこれほど面白い、また奥深い作品は後にも先にもないともいえる。特に、粗さの目立つ野心作たち、すなわち第1稿と称される作品群の、いかにもブルックナー的な、分裂的でありながらそれゆえに統合された奇蹟の交響曲にじっくりと身を浸すが良い。どれほど彼が独創的であったか。

周囲の批判を受け、その後改訂を繰り返し、最後に行き着いた決定稿は、間違いなく傑作だ。しかし、彼の独創的な側面を相当スポイルしてしまっていることは否めない。

エサ=ペッカ・サロネンの「ロマンティック」を聴いて、驚いた。
いかにもサロネンらしいデュナーミクとアゴーギクに支配されるも、全体を通じてあまりに自然なブルックナー(何より細部まで見通しの効く透明さ)。どの瞬間も、音が宙から掬い取られるように生み出され、言葉にならない情感を示すのである。こんなにも感情的で人間的なブルックナーは、果たして作曲家のスタイルに一致するのか第1楽章冒頭から疑問にも思ったが、聴き通すうち、苦にならないどころか思わず惹き込まれていった。恐れ入る。

・ブルックナー:交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」(ノヴァーク版第2稿)
エサ=ペッカ・サロネン指揮ロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団(1997.5.12-13録音)

白眉は両端楽章か。例えば、第1楽章再現部でのフルートのオブリガートとの絶妙なバランス、また木管が主題を奏する際の、弦楽器による控えめな対旋律のぞくぞくする美しさ。そして、弱音からトゥッティで主題が強奏される際のカタルシスも無理矢理感のない自然さを保持するのである。あるいは、第2楽章アンダンテ・クワジ・アレグレット冒頭のチェロの主題提示の、葬送の悲しみのような表情に思わず涙がこぼれるほど。そして、何より決してうるさくなり過ぎないクライマックスの爆発力と推進力は、当時若干39歳のサロネンの真骨頂かも。

ちなみに、怒涛の終楽章の安定感は神がかり的(繰り返し浸っていたいほど)。何よりコーダ直前の神秘性から時間をかけ徐々に放出されるコーダの劇性は、神の声。これぞブルックナーの天才、そして、緻密に再現するサロネンの力量!

少なくとも暗示しておく必要があるのは、ブルックナーの作品から世界へと流れ出す霊的な力のことである。彼の明快で確固たる本質、感情の正直さと心情の純粋さは、しばしば超自然的なものをも指し示している。こうしたことのすべてが、彼の真っ直ぐで誠実な性格や、まさに宇宙的ともいえる内的緊張と相まって、彼をして過去の音楽芸術の巨匠ではなく、未来の巨匠として認めさせるに至るのである。それゆえにこそ、彼の作品において問題とすべきことのすべてを、感動を伴いつつも同時に冷静な客観性を持って検証することが絶対に必要なのである。
「ブルックナーの作品と現代」(1949)
レオポルト・ノヴァーク著/樋口隆一訳「ブルックナー研究」(音楽之友社)P159

ノヴァークのこの言葉は重い。
サロネンには、ノヴァークと同様、ブルックナーの本質が見えているように僕は思う。

 

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