グリモーのモーツァルト レチタティーヴォとロンドK.505(2011.7Live)を聴いて思ふ

モーツァルトはピアノで考え、ピアノで自らを表現した。彼の協奏曲は尊い。独奏曲も然り。
ピアノと歌唱が絡み、そこに管弦楽の伴奏がつくということは、それは一世一代の「告白」ととらえて良いだろう。

レチタティーヴォ「どうしてあなたを忘れられよう」とロンド「心配しないで、愛する人よ」K.505(1786.12.27完成)の美しさ。妻コンスタンツェを大事にしたモーツァルトも、恋愛については奔放で、水面下ではいろいろあったのだろうと想像される。
この作品は、歌劇「フィガロの結婚」K.492の初演においてスザンナ役を務めたアンナ・セリーナ・ストレースのために書かれた音楽の恋文だといわれる。モーツァルトはこのソプラノ歌手に随分と惚れ込んでいたようだ。

それにしても、モーツァルト自身がオブリガート・ピアノを付け、一種の協奏曲として披露されたというのだから、当日の演奏の素晴らしさはいかばかりだっただろう。

心配しないで、愛する人よ、
私の心はいつまでもあなたのものでしょう。

楽譜には「ストレース夫人へ あなたのしもべであり親友モーツァルトより」とあるらしい。楽天家モーツァルトにとっては、現実生活よりも色恋沙汰が何より大事だったということ。現実逃避というなかれ。

エレーヌ・グリモーが2011年に弾き振りで、新進のソプラノ、モイカ・エルトマンと録音したK.505が粋。詩人、松永伍一のエッセイ「天才への妬み」の一節を思う。

「モーツァルトは美しすぎて悲しいわ」と、夏の夜の天の川を見てつぶやいた少女が、完璧な「美しすぎて悲しい」哲学的恋文を私に届けて死んだのは、その年の秋のことである。私たちは隣り同士で、一つちがいだった。ともに級長であった。私が8歳のとき、私たちは肉体関係を持った。あの、たびたび二人だけで交わされる幼い愛の饗宴は、私の過去の中でもっとも〈神〉を感じた充実と恐怖の、虚々実々の時であった。無毛の、少女の陰部に木洩れ陽が射して、うす紅色の火照った肉に〈神〉が宿っていると信ずるのに、私はまるでためらいもない従順な下僕のようであり得た。少女はドイツ人のように彫りが深く、まつ毛が長く、7歳にしてすでに愛を知っていた。愛されていたいと希う必然を知っていたというべきかもしれない。
「私のモーツァルト」(共同通信社)P311-312

何と初体験が8歳だとは!!
たぶん、たぶんだけれど・・・、モーツァルトにもその片鱗があったのではなかろうか。
そう、モーツァルトは美しすぎて悲しいのだ。

モーツァルト:
・ピアノ協奏曲第19番ヘ長調K.459
・レチタティーヴォ「どうしてあなたを忘れられよう」とロンド「心配しないで、愛する人よ」K.505
・ピアノ協奏曲第23番イ長調K.488
エレーヌ・グリモー(ピアノ&指揮)
モイカ・エルトマン(ソプラノ)
バイエルン放送室内管弦楽団(2011.7.22&23Live)

2つのピアノ協奏曲も最高の出来。
特にイ長調協奏曲K.488は、かつてウラディーミル・アシュケナージがフィルハーモニア管弦楽団と弾き振りで録音した名演奏があるが、それに負けずとも劣らぬ音楽性。初めて聴いたとき、僕は久しぶりに感激した。あらためて耳にして、その瑞々しさ、新鮮さに舌を巻く。
エレーヌ・グリモーの実演にまた触れたい。

 

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