フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルのブルックナー第7番アダージョ(1942.4.7録音)を聴いて思ふ

音楽が世界に対してもつ関係は、なんらかの意味で描写するものが描写されるものに対してもつ関係、すなわち模写が原型に対してもつ関係であらざるを得ないことは、ほかの諸芸術との類比からしてわれわれの推量し得るところであり、ほかのあらゆる芸術はこの性格をそなえているし、われわれの心に及ぼす効果という点でも音楽の効果はだいたいにおいてほかのあらゆる芸術と同質なのであるが、ただ音楽の効果の方がほかの芸術にくらべてはるかに強烈であり、迅速であり、有無を言わせぬ力があり、過つことのない確実さをそなえているというところに差があるのである。
ショーペンハウアー著/西尾幹二訳「意志と表象としての世界Ⅱ」(中公クラシックス)P205

音楽は想像力を掻き立てる。というより消えてなくなる分だけ効果は強烈なんだと僕は思う。

「国家社会主義が目指しているものはワーグナーの作品に内包されている」とか、「国家社会主義を理解するためにはワーグナーを読まなければならない」とヒトラーは折に触れて断言している。しかし誰もそれを理解しようとはしなかった。効果的に仕組まれた舞台の台本のようなヒトラーの演説にも、誰も気づかなかったが、青年時代の読書の成果が現れていた。数時間にわたって随所に感情の爆発がある、説教のような演説は、相変わらずワーグナーの福音と結びついていた。その核心は精神的な画一化と実際の聴衆の画一化が対応していることであり、それは最後まで変わらなかった。
ヨアヒム・ケーラー/橘正樹訳「ワーグナーのヒトラー—『ユダヤ』にとり憑かれた預言者と執行者」(三交社)P166

アドルフ・ヒトラーが空想した「千年王国」も文字通り「幻想」だった。
彼の源泉は、何よりワーグナーの思想、そして音楽劇であるが、問題は政治をそれと結びつけ、大衆が扇動されてしまったことだ。

音楽には、(良くも悪くも)人々を煽る力がある。

ヒトラーにとって、英雄と下等人間という両極が絶えず争う「ニーベルングの指環」の手本どおりに人類が分裂するとき、歴史の全過程は苦しみに満ちた「分裂」から最終的な「統合」へ傾くことになり、それは敵側の対極を克服することにより生まれる。「堕落したもの」の「克服」に基づいた抽象的な力学は、人種的混沌から民族共同体へ、帝国の分裂から統一へと強力にせき立て、同時に弁証法的な説得力により哲学的な根本原理に適うようになる。
~同上書P166-167

「指環」においてブリュンヒルデの純愛(または犠牲)によって神々が没落するドラマは、愛と死による統合を描くものだが、確かにヒトラーは、自身が想像した「克服」に基づく抽象的力学をもって、第三帝国の崩壊と自らの死(それはすなわち世界の統一)を呼び込んだのだろう。

アドルフ・ヒトラーの死を告げるラジオ放送では、ブルックナーの交響曲第7番第2楽章アダージョが流されたという。

このアダージョはフルトヴェングラーのレコードの中で重要というより、歴史的遺物のようなものとして有名になった。この曲は、1945年4月30日にヒトラーの死が報じられたとき、帝国ラジオ放送で流れたレコード2曲のうちの一つだった。もう一曲は「ジークフリートの葬送行進曲」で、これもフルトヴェングラーの指揮だった。
サム・H・白川著/藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代訳「フルトヴェングラー悪魔の楽匠・下」(アルファベータ)P287

いかにもフルトヴェングラーらしい粘るテンポで開始される第1主題も、神々しいばかりの第2主題の甘美さ、静けさも、端から何という透明さを獲得していることか。音楽そのものに、演奏そのものに罪はない。歴史的事実を抜きにしても、フルトヴェングラーの演奏は死の嘆きと、また死への憧憬を喚起し、筆舌に尽くし難い美を醸す。

・ブルックナー:交響曲第7番ホ長調第2楽章アダージョ(1942.4.7録音)
・グルック:歌劇「アルチェステ」序曲(1942.10.29録音)
・ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第13番変ロ長調作品130第5楽章カヴァティーナ(1940.10.15録音)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

同じく女性が犠牲となり命を捧げる物語「アルチェステ」の序曲も、その悲劇性においてフルトヴェングラーの右に出る者はいない。極めつけは、ベートーヴェンの「カヴァティーナ」!!晩年のベートーヴェンの崇高な祈りが、弦楽合奏によって奏されるとき、音楽は一層の力を獲得する。やはりこれも、来るべき第三帝国の崩壊を予知し(夢想し?)つつ、録音されたものなのだろうか。

意志は、認識によって光をしだいに照らされてくるいかなる段階においても、個体として現象している。そして人間という個体は、無限の空間と無限の時間のただなかに有限な存在として投げ込まれているのであって、したがって時空の無限に比すればほとんど消滅しそうなほど小さな量の存在として、その中へ投げこまれていることに気がつくだろう。そして人間的という個体は時空のこのような無限界性のゆえに、いつもただ相対的ないつとどことを有しているだけなのであって、けっして彼は絶対的な意味での時間や場所をもつことはできないのである。
ショーペンハウアー著/西尾幹二訳「意志と表象としての世界Ⅲ」(中公クラシックス)P3

人間が音楽に魅力を感じるのは、形式という有限の中に拡がる無限の旋律、リズム、ハーモニーに対しシンパシーを感じるゆえなのだろうと僕は思う。音楽は想像力を掻き立てる。

 

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