宇野功芳指揮新星日響のワーグナー「指環」オーケストラル・ハイライト(1993.4.15Live)を聴いて思ふ

そういえば宇野功芳さんが亡くなって早2年が経過する。
晩年は、その筆の勢いというか、かつてのキレがなくなってしまい、とてもがっかりだったけれど、例えば1980年代初頭、「レコード芸術」誌上で繰り広げられた福永陽一郎さんとのムラヴィンスキー論争などは、現在では考えられないほどの互いの持論の主張と反論の応酬であり、今思い出しても読者である僕たちが熱くなるほど激しいものだった。

当時、オイロディスクからリリースされた「ウィーン芸術週間のムラヴィンスキー」と題するLP4枚組セットについて、冒頭いきなり「エフゲニー・ムラヴィンスキー。この名前は私にアレルギーをおこさせる」と、まずは福永さんが気炎を吐いた。

今度のアルバムについても、宇野さんが「現役指揮者の中で唯一人の天才」なんて持ち上げるものだから、何だか気おされてしまって、かえって味気なくなってしまいそうだったが、1978年のライヴ録音というから、ひとつのオーケストラの常任指揮者としての在任記録も、オーマンディと並ぶ長距離不倒走者というわけだし、この際、心をあらためてジックリ耳をかたむけてみたのだ。
~「レコード芸術」1981年4月号P200

この謙遜というより何とも慇懃な言い様に、右も左も分からない高校生ながら(当時宇野派の僕は)呆れ返らざるを得なかった。
福永さんは、シューベルトもブラームスも異様な演奏だとして数多の言葉を駆使してこき下ろし、ショスタコーヴィチについては「凄い」と賞讃しながらも感情の枯渇を指摘、さらにチャイコフスキーに至っては「評価のしようがないほどナンセンスな演奏だ」と取りつくしまがない。挙句は「蕁麻疹が出た」という有様だから僕は言葉も出なかった。

さすがの宇野さんも、これには反論の筆を執った(福永陽一郎氏のムラヴィンスキー論に反論する)。

具合が悪いのは、福永さんが、この演奏のすばらしさ、指揮者の表現力、統率力、オーケストラの能力を口を極めて絶讃し、その個性を好む趣味の人を貶すつもりはないが、ご自分は蕁麻疹が出た、といわれていることであろう。ムラヴィンスキーに対するアレルギーに、理由などはほとんどない、その拒絶反応には説明のしようがない、というのでは、これは好き嫌いの問題であって、話にならないのである。好きでも嫌いでも、良いものは良い、悪いものは悪い、というのが批評の鉄則であり、福永さんが、自分は批評家ではない、といわれても、それは通らないと思う。
~「レコード芸術」1981年7月号P130

いかにも正論の宇野節炸裂に欣喜雀躍。
さらに宇野さんは次のように福永さんを責め立てる。

もう一つの大問題は、福永さんがムラヴィンスキーの実演を一度も聴いたことがない、という事実だ。凡庸な演奏というものは、時にマイクを通した方が良く聴こえる場合もあるが、天才の芸術になればなるほどマイクには入り切らない。
~同上誌P130

この後も宇野さんはムラヴィンスキーの演奏の凄さを、手を変え、品を変え、訥々と論じられている。そして記事の最後を次のように締められているのである。

それにしても、福永さんがムラヴィンスキーのシューベルトやブラームスを《ロシアなまり》と称しているのには抵抗がある。ムラヴィンスキーのチャイコフスキーやショスタコーヴィチを本場物だから、という理由で高く評価するのが間違いであるように、この指揮者にロシアなまりなど、ありはしない。それこそ彼の個性なのである。福永さんは、ムラヴィンスキーの演奏を「自説でしかない」とけなされているが、演奏というもの自体が、本来自説でしかないのではあるまいか。ぼくが思うに、現代の指揮者たちは自分を語ることから遠ざかっているように思う。
~同上誌P131

演奏というものが本来自説でしかないという言葉に膝を打つ。
その通り、宇野さんも、自身がオーケストラを指揮するようになってから、自説以外の何ものでもない個性的な演奏を繰り広げた。そしてまた、(ムラヴィンスキーとは次元が違うとはいえ)彼の演奏も録音にはなかなか入り切らなかった。

「ワーグナーには小細工をしてもはじまらない。いかにオーケストラを鳴らし、雄大なスケールを表出するかだけだ」と挑戦したワーグナーの管弦楽を中心に組んだコンサートでも、宇野さんはその録音を発売することにとても躊躇したというのだから興味深い(示導動機が鮮明さを欠き、響きに立体感が乏しいという理由かららしい)。しかし、その演奏は当然とても個性的なもので、今となっては残していただけて良かったと思えるもの。

ワーグナー:楽劇「ニーベルングの指環」よりオーケストラル・ハイライト
・「ラインの黄金」~ワルハラ城への神々の入場
・「ワルキューレ」~ワルキューレの騎行
・「神々の黄昏」~夜明けとジークフリートのラインへの旅
・「神々の黄昏」~ジークフリートの葬送行進曲
・「神々の黄昏」~ブリュンヒルデの自己犠牲と終曲
宇野功芳指揮新星日本交響楽団(1993.4.15Live)

悠久を思わせる遅いテンポで奏される「ワルキューレの騎行」は、細部まで見通すことのできる絶品。そして、「神々の黄昏」からの3つのシーンの、時間と空間を超えた魔法の妙。特に「葬送行進曲」での地の果てから蠢き、轟く音響の有機性に驚くばかり(さぞかし実演ではすごい音が発せられたのだろうと思う)。あるいは終曲の、「生への歓呼の動機」と「ワルハラの動機」の上に、「愛の救済の動機」が顔を出し、音が三層に重なり合う場面の神々しさ。

ワーグナーが自筆総譜の最終ページに書き込んだ言葉はこうだ。

1874年11月21日、ヴァーンフリート荘にて完成。もう何も言うまい!
日本ワーグナー協会監修/三光長治/高辻知義/三宅幸夫編訳「神々の黄昏」(白水社)P140

文字通り言葉がない。

 

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