教へやうのない魔

リンカーンはしばしば話の途中で言葉を切った。大切な個所にきて、それを聴衆の心に深く印象づけたいと思うとき、彼は身体を乗り出し、しばし聴衆の目をのぞきこんで黙っていた。この突然の沈黙は突然声をはりあげる大声と同じ効果があった。それは注意をひいた。(中略)リンカーンはまた強調したいと思う語句のあとでも沈黙した。言葉の意味が深く聴衆の心にしみこんで、その任務を果たす間、彼はじっと沈黙を守って言葉の力を強めた。
(D.カーネギー、下島連訳『話術の魔力は君のもの』)

ただ生理的に無神経に、言葉と言葉との句切れをつけるのでなく、張りつめた神経を鋭敏に働かして、レーダーの如く、正確無比に適不適を計るところの「沈黙の時間」なのです。
(徳川夢声『話術』)

「マ」とは虚実のバランスなり。
「話術」とは「マ術」なり。
「マ」とは動きて破れざるバランスなり。
(徳川夢声『話術』)

団十郎は斯うも言ひました。「踊の間と云うものに二種ある。教へられる間と教へられない間だ。取分け大切なのは教へられない方の間だけれど、これは天性持つて生まれて来るものだ。教へて出来る間(ま)は間(あいだ)と云ふ字を書く。教へても出来ない間は魔の字を書く。私は教へて出来る方の間を教へるから、それから先きの教へやうのない魔の方は、自分の力で索り当てる事が肝腎だ」との教訓でした。これが容易に会得できるものではないのです。
(服部幸雄「間の文化」、『花道のある風景』所収)

間は人によってみな違います。その人の息の長さ、声の性質などによって独特の口調というものが出来てくる。だから人のまねでなく自分の噺をしなきゃァいけないということは、間の問題でも言えることです。しかしその人の体に適った本当の口調というものが出るのは、芸が出来てそののちの話で、そうなって初めて本当の自分の間だと言えるわけでしょう。
(六代目三遊亭圓生『寄席育ち』)

これらはすべて読み始めたばかりの「落語の話術」(野村雅昭著)に引用されている「間」というものについての各界の巨人の言葉である。最初からもう「なるほど」の連発。とにかく面白い。落語についてはまったく疎いが、第1章「間」を読んでいて、音楽における名演奏というのもまったく同じ論理のもと生まれているんだと再発見。例えば、音盤でしか知らないフルトヴェングラーの実況録音などは団十郎の言う「教へやうのない魔」が頻発することで聴く者を呪縛する力に溢れているのだろう。

ブラームス:交響曲第2番ニ長調作品73(1945.1.28Live)
ベートーヴェン:レオノーレ序曲第3番作品72a(1944.6.2Live)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

いずれも戦時中の鬼気迫る怒涛のライブ。当時、ヒトラー暗殺未遂事件の共謀者の一人としてブラック・リストに挙げられていたフルトヴェングラーは、結果的にはスイス総領事の協力を得てオーストリアを無事脱出できたものの、いつゲシュタポに逮捕されてもおかしくないという状況におかれており、そんな不安に押し潰されるような中、演奏されたのがこのブラームスの第2交響曲。実にこの脱出劇の前夜のものだそう!!息をのむ瞬間が多発する、「間」、否、「魔」の音楽!!!

さて、「落語の話術」の続きを読もう。これは落語についても断然追究したくなってきた・・・。


3 COMMENTS

雅之

おはようございます。

>教へても出来ない間は魔の字を書く。私は教へて出来る方の間を教へるから、それから先きの教へやうのない魔の方は、自分の力で索り当てる事が肝腎だ」との教訓でした。これが容易に会得できるものではないのです。

こういう「間」(魔)は、文化や風土、言語、気候、など、お国柄から来る違いも大きいですよね。武満徹の曲を西欧の指揮者とオケが演奏しているのを聴くと、だいたいお国柄の違いによる「間」(魔)の壁にぶち当たっている気がします。

ブラームス:交響曲第2番は、彼の4つの交響曲の中で、最も「間」(休止)での「溜め」を要求する曲ですよね。終楽章など、これがないと欲求不満になりますよね。ご紹介のフルトヴェングラーによる貴重な歴史的記録は、そういう意味で、レオノーレ序曲第3番共々、「間」(休止=魔)を最大限利用した緩急のつけ方、「溜め」てからのパワーの解放がじつに見事ですね。

ふと思ったんですが、音楽で「大自然」とか「大宇宙」を表現する場合には、特に「間」という手法が極めて有効になるのではないでしょうか? 

その意味で「間」(魔)について考えるなら、ブルックナーの交響曲も外せません。
「ブルックナー休止」という「間」(魔)は、楽想が変化するときに、管弦楽全体を休止(ゲネラル・パウゼ)させる手法ですよね。たとえばコーダの前などでは管弦楽が休止、主要部から独立し、新たに主要動機などを徹底的に展開して頂点まで盛り上げますね。

ブルックナー:交響曲第2番は、全休止が多いので「休止交響曲」の俗称で呼ばれることもあったそうですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC2%E7%95%AA_(%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC)

ブルックナー指揮者による「間」(魔)の芸風の違いに注意して聴くと、この曲なども、とても味わい深い鑑賞ができると思います。

※愛聴盤
ブルックナー 交響曲第2番(初稿) ティントナー&アイルランド国立交響楽団
http://www.hmv.co.jp/product/detail/676711

ブログ本文を読んで、久々にこの曲を、朝比奈先生の録音などでも聴き比べてみたくなりました。

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岡本 浩和

>雅之様
こんにちは。

>音楽で「大自然」とか「大宇宙」を表現する場合には、特に「間」という手法が極めて有効になるのではないでしょうか? 
>その意味で「間」(魔)について考えるなら、ブルックナーの交響曲も外せません。

同感です。おっしゃるように2番などは「間(魔)」というものに注力して聴いてみると面白いかもしれません。僕もいろいろと聴き比べてみたいと思いました。ティントナー盤いいですよね。実演に触れてみたかったです。
ちなみに、僕のおすすめはアイヒホルン&リンツ・ブルックナー管のものです。こちらもキャラガン校訂版ですね。

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